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続・新発想 中国語の発音 -言葉遊び・漢詩編-続・新発想 中国語の発音 -言葉遊び・漢詩編-
(2006/12/15)
劉 徳聯、劉 岩 他

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 金庸の小説では、小説の題名から登場人物、武功名、科白など「本歌取り」というか、古典や先達の作品、経典や格言にとったものが山のようにあります。 「間テキスト性」というらしいですが、特に中国語は「発音」と「漢字」の両方から、また膨大な「ブンガク」の蓄積により、高尚なものから駄洒落っぽいものまで「言葉遊び」の宝庫ですね。 「音」と「形」の連想に加え、元の字句の意味やその作者、情景、歴史的背景まで想像は及び、「書かれたこと」以上に「笑い」「皮肉」「説得力」をもってくるのですが、私は残念ながらその知識が無いので、多分面白さの半分は味わえていないのです。

 
 さて、『メタ言語』なんて大げさな用語を使いますが、この意味は『この言語自体では意味が無い、ある言語を表現するための言語』ということで、コンピュタのプログラム言語のようなものを言うそうです。 もちろんこの小説が意味が無い言語で書かれているということではなく、『書かれている字句の直接意味するもの以上にその字句に込められた「象徴的な意味」があり、それらの組み合わせにより「情景の奥に在る意味」が読める』ということです。
 リアリティの無い武功名のメタファー・アイロニーは、先般「吸星大法」を例にとりました。 これが進むと、武芸自体の名称やその型や内容は無意味に近く、それが意味する「象徴的なもの」がまずありき、ということになってきます。 どうも、金庸は「天龍八部」「笑傲江湖」までくると、諷刺的手法も含め、ほとんどこの書き方をしているのではないかと思います。 武闘シーンをイメージして書いたのではなく、「書きたいこと」があって、それを武侠小説の文法に当てはめていったような気がします。
 ここでの『メタ言語』の意味はこれであって、本来の用語の使い方としては間違っているかもしれませんし、「何を言うんだ」でしょうが、それは御容赦の程・・・。 

 この『三戦』の令狐冲と岳不羣と闘いは、それまでの任我行と方証大師・左冷禅との「政治家のエゲツナイ駆け引き」が、うってかわり師弟対決になります。 その描写が武闘としても迫力があるだけでなく、『親子(擬制だが)かつ師弟』の『心理戦』(特に「子弟」である令狐冲の心の葛藤)という面で強い印象があります。 いわば「親を超える」「世代を超える」そして「時代を超える」「闘いと苦悩」の姿と、現実にもよくある「横から見守る、チャチ入れる人たち」の姿も含め伝わってきます。 又、岳不羣の武林の頂点に立つべく魔の「辟邪剣譜」に手をつけ、「陰謀」をめぐらせ始めた姿が結果的に見えてきます。 
 闘うきっかけは、見かけ「「正派そして師としての面子」、内心「子(弟)が親(師)たる自分を越える(越えてしまっている)ことへの苛立ち・怒り」を込め岳不羣が仕掛けたという形で始まります。 令狐冲は、「考」とか「礼」の世界で、既に親(師)を超えてしまった技「独狐九剣」は使えません。 逆に力の差を思い知った岳不羣が、「考」「礼」から逸脱するような「裸のフリした心理戦」を仕掛けます。 岳不羣は、勝てるはずが無いが、負ける(令狐冲が勝ちに来る)はずの無い闘いで、執拗に令狐冲を「イタブリ」ます。 華山派気功流に反する「奪命連環三仙剣」、そして後に岳不羣がワザとらしくネタあかしし、寧中則を激怒あきれさせた「浪子回頭」「蒼松迎客」と「冲霊剣法」を駆使します。 「門派を外れた個人的殺意」「形だけの関係回復への誘い」です。
 これらの四字熟語でかかれることの多い武功とそれを駆使した闘いは、「視覚的」に表現しうものでしょうが、映像化すると「リアリティ」があまりにも無く、「白々しい」場合が多いのです。 この辺は想像力への依存度で、小説が映像に対し絶対的に有利な面なのかもしれません。
 ただ、この小説は「心理面」を親切に説明しすぎており、書かないほうがいい部分が多いような気もします。

 君子剣「岳不羣」は「言っている事とやっている事」が裏表で違う「偽君子」となりますが、「物語の面白さ」「プロットの巧みさ」「間テキスト性の愉快さ」「個別場面の魅力」が組み合って出来上がった「君子的小説」は、実は裏がある「偽武侠小説」(笑)なんですよ実は・・・。

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