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歴史の研究 1 (1)歴史の研究 1 (1)
(1975/11)
トインビー

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 「笑傲江湖」のレビューですが、最終章で頓挫しはや2ヶ月放置しっぱなしなのです。 何故かと言えば、この前章で取り上げたこの本現在は「四書五経入門―中国思想の形成と展開」という別の書名で再版されている)をめくり返していたのですが、最終章の「四書五経と現代の日本」という項目に以下のような記述があった為です。 『四書五経とトインビー』という「巨大なもの」が出てきてしまいまして、纏めきれずにおりますがまあこの辺でケリを付けたいので・・・以降長くなるので続きにて・・・。
 どんな社会にもある思想的な基準は存在する・・・・今やこの基準は自由民主主義的な「良識」と呼ばれるものである。・・・・・ これ(「良識」)は一面においては個人的・主観的な見識でもあるから、相互の良識が一致しない場合の生ずることが少なくない。 けれどもわれわれは早まって良識の多様性を一致させようとして、良識の上にさらに基準を設けようとしてはならない。 良識はまさしく万人の良識であって、これを一定範囲内に統制させようとする要請は、結局、民主主義から全体主義への転換を招くことになるのであろう。 良識の対立は、ただ相互的な理解と譲歩によってのみ調整せられねばならない。 
 自主と自制、自己主張と相互理解、これらは人民もしくは国民の内部的な自己決定・自律作用であり、この機能を養い強めてゆくことが、民主主義社会を意地発展させるために欠くべからざる条件である。----トインビーはその「歴史の研究」の中、諸民族の文明社会の崩壊し解体する過程を論ずる際に、次の趣旨を説いている。
 「一個の文明社会はその主体の自己決定の能力の喪失によって、崩壊に向かい、ついに解体し、その民族文明は絶滅するか、もしくは化石化によって、わずかに存続する。 そして、こうした社会はしばしば他民族により直接もしくは間接の支配を被り、その社会の中に多数の「内的プロレタリアート」が発生する。かれらは、経済的もしくは精神的な疎外者であり、みずから「この社会の中には居るが、属してはいない」という意識にとらわれている」(第17・18章)
 右の見解は現在のわれわれにとり大いに示唆的である。---むかし孟子は「恒産無ければよって恒心無し」と言ったが、民族社会の環境と状況いかんによっては、多くの人々が必ずしも貧困という原因によらないで、精神的『やどなし』になりさがる。 こうした精神的な自己疎外者の人生観や処世観は、きまって頑固な利己主義か虚無的な享楽主義かであり、・・・(中略)・・・・ 民族主義は民族の自主独立という正当な意味において民主主義の基本である。・・・(中略)・・・・
 自己の社会の伝統的な文明を、トインビーの指摘するような「化石化」によって、かろうじて保存するか、または異種の文明との接合によって新しく開花せしめるかは、一にかかって民族の自己決定の力に存するわけである。
 (私註:「内的プロレタリアート」 と 精神的『やどなし』 は同じような意味と思います。 


 この「四書五経―中国思想の形成と展開」は笑傲江湖と同時期の’65年に書かれたものです。
 私は、上記特に後半部分は、「金庸が笑傲江湖、中でも金庸自身の化身としての『令狐冲』の生き様という点で、潜在的に想いながら書き綴ってきたことと、同じ想いではないか?」と考えます。
 金庸は某大宗教家との対談集の冒頭で、『「抗日戦争後故郷に戻って「歴史の研究」の縮刷版を読み、「トインビー博士の教え子になって、彼の教えを受けることが出来たなら、たとえその後の一生が貧しく落ちぶれ、・・・・路上で屍を拾ってくれる人がいなくても、きっと幸福で満足な人生にちがいない」と思った』と記すほど、影響をうけたようです。
 ということで、「四書五経」と「トインビー」という巨大な壁にぶち当たり頓挫してしまったわけですが、まあここから真正面に展開するには人生の半分ぐらい使いそうなので、このまま終わりにしておきます。
 最後は「あとがき(後記)」を勝手に読んでみます。
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