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天龍八部〈第1巻〉剣仙伝説天龍八部〈第1巻〉剣仙伝説
(2002/03)
岡崎 由美、金 庸 他

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 10/1付けエントリーに加筆したので再エントリーしました。


 「天龍八部」の第1回目。 単行本8巻なので、8回で纏めてみたいと思っていますが、どうなることやら・・・。 天龍八部の和訳本は、各巻の表紙に登場人物の素敵な絵が描かれていますが、第一巻は、「『誉』は不名誉の誉」の『段誉』ですね。
 さて本題。

 これは何とも不思議な小説です。 解説書などを見ると、この小説は「ストーリー」ではなく「人物設定」まずありき、だったようで、それゆえ、その人々を繋ぎ合わせるのに精一杯、強引・奇突・無理・難解な展開、バランスの悪い場面描写、ありきたりかつあっけない結末、など・・・ストーリーは殆ど破綻状態です。 「笑傲江湖」を読んだ時、勉強がてら試みた「小説技法」的には失格としか思えません。 「批評理論」的に豊穣なテクストにみえますが、仏教や古典からの引用も含め、余りにもごった煮、それもタップリと辣椒油と豆板醤を溶かし込んだ「四川火鍋」みたいです。
 けれども何故か「面白い」のです。 それも、他の長編の様に、「ストーリー」を追っていく読み方ではなく、8巻の単行本をどれかを無造作に取り上げ、捲ったところから読み始めても、そのままこの不思議な世界に惹きこまれてしまうのです。

 「天龍八部」では、「笑傲江湖」と違い、巻頭に作者の「解題」が記されています。 殆どが仏教に所以する「天龍八部」とは何ぞや、の説明ですが、数ヶ所この物語を解き明かしてくれる記述があります。

 『「非人」とは、貌かたちが人に似て、人ではないものをいう。 天龍八部はみな非人に属し、八種の神々や怪物からなっていて・・・』
 『天龍八部と呼ばれる精怪たちは、おのおの奇異な個性と神通力をもち、人ならざる生き物でありながら、同じく俗世の喜怒哀楽を味わう。』 
 『仏典の名称をかりて『水滸伝』における「母夜叉」孫二娘や、「摩雲金翅」欧鵬のように、いささかの現世の人物を象徴してみたのである。』


 つまり、『「現世の人物(ふつうの人)」が少なからず内包する「奇異な個性と神通力」をデフォルメ・象徴化した「非人(ふつうでない人)」達が、現世・俗世の「喜怒哀楽」を味わう』。 そういうお話ですよ、ということでしょう。

 そして『現世・俗世の「喜怒哀楽」』ですが、何度か小説内の科白にも出てくる「四苦八苦」、その語源である「四諦(したい)」という言葉に象徴されます。
 この辺は「かじり虫」ゆえ、「wiki」をそのまま引用すると、

『 四諦(したい)とは、仏教用語で、釈迦が悟りに至る道筋を説明するために、現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた苦集滅道の4つをいう。
 * 人が生きるということは苦であるという真理
 * その苦の原因は人間の執着にあるという真理
 * この苦を滅した境地が悟りであるという真理
 * その悟りに到達する方法が仏道であるという真理
 であり、これを順に苦諦・集諦・滅諦・道諦と呼ぶ。 このうち前二者は流転の因果を示し、後二者は悟りの因果を示す。 
 「苦諦」
 苦諦(くたい)とは人生の厳かな真相、現実を示す。「人生が苦である」ということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿である。このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。
 四苦とは、生・老・病・死の4つである。これに、
 * 愛し合うものが別れてゆかねばならない「愛別離苦」(あいべつりく)
 * 憎む対象に出会わなければならない「怨憎会苦」(おんぞうえく)
 * 求めても得られない、または得られないものを求めてしまう「求不得苦」(ぐふとっく)
 * 最後に人間生存自身の苦を示す「五陰盛苦」(ごおんじょうく)、または「五取薀苦」(ごしゅうんく)
 を加えて「八苦」と言う。非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句「四苦八苦」はここから来ている。』


 この物語は、「愛別離」「怨憎会」「求不得」そして「五取薀」という、人間の極めて個人的な「苦」と真っ向から「闘い」、時には「翻弄され」ていく中での、「喜び」「怒り」「哀しみ」そして「楽しさ(安らぎ)」の「人間ドラマ」を描いているのです。
 「笑傲江湖」が「社会的存在としての人間」ドラマとすれば、「天龍八部」は「個としての存在の人間」ドラマであると考えます。 それゆえ宗教の中でも、極めて個人的な問題のみ突き詰めていく「仏教」がモチーフになっているのではないかと思います。
 ともあれ、武侠小説を書き綴った「完成期」に、まったく対照的な視点から切り込んだ二つの「人間ドラマ」を書いた金庸は、やはり「流石」です。

 そして、金庸先生はどうも、この「苦」特に「五取薀」としての「テーマ」、「人間の存在」つまり「アイデンティティ」の根幹のようなものを、それも一人ではなく、四人の男主人公を設定し、個別に与えているようです。

 ・蕭(喬)峯:「民族」  ・段誉:「血族」  ・虚竹:「信仰」  ・慕容復:「家」

  もちろん、物語の展開には、「情(色恋沙汰)」の対象としての「女主人公」達が絡み合い、「親の因果が子に報い」的因縁を背景にしますが、この大きな四つのテーマをひとつの物語の中で語ってしまおうと、まあ「贅沢」かつ「むこうみず」な構想です。 金庸「近代文学に挑戦」ということです。

 更に、御丁寧に物語では、「四苦八苦」とばかり、登場人物・人間関係など執拗に「四」とその倍数に拘っています
 四人一組の登場人物たち、「四大悪人」・「正淳の四人の情人」・「段家の四大警護」・「天龍寺の四人の「本」大師」・「慕容家の四人の家臣」・「丐幇の四長老」・「少林寺の四人の「玄」大師」・「函谷八友」・「三十六洞七十二島」・・・はては「四つ子の侍女」まで登場させます。
 物語の展開では「四人の関係」が様々な局面の軸になっています。 「四人の男主人公」はもとより、段王家の「正明・正淳・延慶そして誉」の宗主権、逍遥派の「無崖子と天山童姥・李秋水・秋水の妹」の四角関係。 物語の舞台も「北宋」とそれを取り巻く周縁の「遼・西夏・大理」という四ヶ国を選んでいます。

 こういう雄大な構想と仕組みの物語ですが、その中で物語をかき回していく人物は、この安定して見える「四」の組み合わせから「外れた」面々です。 鳩摩智・馬夫人(康敏)・丁春秋・游担之。 そして、「段正淳の情人の子供達はひとりづつ」のはずなのだが、何故か「ふたり」いる阿朱と阿紫。 この辺の「仕掛け」がこの物語のまずひとつの機軸であると思います。
 次回はこの辺から書いてみます。
 
追: 上記の解題の一節に 『水滸伝』における「母夜叉」孫二娘や、「摩雲金翅」欧鵬のように、いささかの現世の人物を象徴してみた。 とあります。 「孫二娘」は何となく「そうか」と解るのですが、水滸伝には大きなエピソードの無い(小生が読み取れないのでしょうが)「欧鵬」が何故此処に出てきたのかよく解りません。

<参考> ・金庸wiki   ・金庸中国語wiki  ・小説天龍八部wiki   ・小説天龍八部中国語wiki  ・仏教天龍八部wiki  ・大理国のwiki  ・雲南大理の観光案内はこのサイトと、 このサイトが充実
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