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天龍八部〈2〉王子受難天龍八部〈2〉王子受難
(2002/04)
岡崎 由美、金 庸 他

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 第二巻のカバーの絵は、「語笑嫣然たり、和藹親しむべし」の『王語嫣』と思いますが、薄緑(碧)のお召し物なので、もしかして『阿碧』なのかな?と、小さな疑問です。

 第1回からのつづきです。
 どうも最近の解説では、男主人公は四人ではなく、哀れ慕容復が外されてしまい最後の雁門関の「義兄弟」三人で、それに女性陣五人を足して「八部衆」のような書き方が多いですが、「四の組み合わせ(対称性)」から云ってもこれは違います(笑)。 彼の「家」というテーマが少々異質で、この物語の枠で上手く描けなかった結果でしょうが、この辺は後々で・・・。

 さて、今回の本題は、「段正淳の情人の子供達はひとりづつ」のはずなのですが、何故か「ふたり」いる阿朱と阿紫です。
 「朱」は「善」、「紫」は「悪」を象徴する色とも言われるように、読者が人間の「善」と「悪」を対照的・象徴的に感じるような描き方がされています。 しかし、待てよ・・・と、そう簡単な話ではないような・・・。 という訳で少々ひねた展開をしてみます。

 阿朱と阿紫は、途中交替してほぼ「蕭(喬)峯」の現れるところ全編にわたって付きまといます。 二人の「想い」は只ひたすら蕭(喬)峯に向いています。 そのベクトルの「質」が余りに違うため、『善』と『悪』のように感じますが、方向と強さはなんら変りません。 気を引こうとして毒針を吹き付ける阿紫より、阿朱の数々の「お節介」な行動の方が、蕭(喬)峯にとっては結果不可になっている感さえあります。
 その「お節介」な阿朱の得意技は「変装、自分の本当の姿を隠し誰かに扮すること・自分以外の誰かを演じること」で、肝心なところでは本当の私ではないのです。 喬峯の為に「私ではない誰か」を演じ続けています。 段誉との出会いはさておき、「天寧寺の喬峯」「少林寺の止清」「馬夫人(康敏)を訪ねる白世鏡」・・・。
 結局「アサハカ」なと思える行動の結果、喬峯の江湖社会内部での立場は悪化し、「かしら」=「段正淳」という間違った情報を掴まされます。 更に自らの出自と阿紫の存在を知った故、それまでの「仮構の私」を清算するように、偽「段正淳」に扮し蕭峯の降龍十八掌に倒れます。 その時、蕭峯の自分に対する想いが、自分の蕭峯に対する想い以上であると確認し、本当の私「阿紫」に交替・転換します。 「演じる(仮面)私」と「本音(本当)の私」の対比が実に見事です。

 漢族の「喬」・契丹人の「蕭」と「ひとり」が「ふたり」に引き裂かれた蕭峯と対照的に、「二心同体」の阿朱と阿紫は「ふたり」で「ひとり」です。

 それは、自ら「喬」峯ではなく「蕭」峯であると理解しつつ、「造られた恩仇と民族対立の罠」にはまり「出口なし」の放浪を続け、最後まで「蕭でありかつ喬である」べき(蕭か喬かではない)ことをに折り合いが付けられなかった、こんな蕭峯の生き様と同期した「交替・転換」です。 最終巻で阿紫が「精一杯の思いのたけ」を告白しても、「阿朱ひとりが思い人」と撥ね付けてしまうところは、「折り合いが付けられない蕭峯」そのものです。 もし、阿朱から少しでも離れることが出来たら(出来ないから蕭峯なのですが・・・)阿紫も蕭峯から離れていったはずです。

 扮したり演ずることなく、「苦」や「執着」や「悟り」など何処吹く風。 「他者からみれば「悪」と感じる行動」を、素のままに一切妥協せずとり続ける阿紫。 実はここで描かれるべき人物像は、「狂」ギリギリの突き抜けた状態でさえあれば、「極悪人」でも儀琳のような「絶対的な善人」でもいいのです。
 とはいっても、阿紫の「悪さっぷり」の「書き込み」は、さすが金庸、リミッターを外したとはいえ呆れるほど素晴らしいですね。 登場するなり、「私は無用な殺生が好きなのよ。それが何なの?」と「『好み』で生きることを前面に出し、・・・蕭峯に「こいつったら自分の苗字も判ってないのよ」と「『言っちゃいけない本当のこと』を口にし」・・・この後は御承知の通り。 代筆時に予定外に「盲目」にされれば、逆手にとって遊担之の「眼」をもらった(奪い取った)挙句、最後は「貸し借りなしよ」と自ら抉り取る。 この「貸し借りなし」は「自分勝手」の裏返しですが、まあよくそういう発想が出来るねえ、・・・感嘆するのみです。

 さて、阿紫は、自刎することつまり「蕭でも喬でもなくなる」ことによってのみやっと「折り合いが付けられた」蕭峯を、かつての父遠山と同じように抱きしめて雁門関の谷底に飛び降りました。 ここは色々感じるところではありますが、蕭峯を、父遠山が「投げ上げた」ことによる「苦」の「再生産」を断ち切り、「苦」から救う(滅諦)ことができるのは、阿紫しかいなかったのではないかと確信しています。

 wikiには 「実際の物語においても、その背景に横たわっているは、武術、民族は言うに及ばず、男女間の情愛でさえも、時と共に全て消滅てしまうという一種の諦念、無常感」 という記述がありますし、同様の言説が散見されます。 私は残念ながら感度が悪いのでしょう、物語自体からは全く逆の畳み掛けるような「執着」の連続しか読み取れませんし、背景にあるという「諦念、無常感」は感じられません。
 「諦念」については結末まできて、かろうじてその可能性が提示されるだけです。 但しそれは、阿朱と蕭峯の「死」と阿紫と慕容復の「狂」です。
 次回は『慕容復の「狂」』について書いてみます。

<参考> ・金庸wiki   ・金庸中国語wiki  ・小説天龍八部wiki   ・小説天龍八部中国語wiki  ・仏教天龍八部wiki 
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