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 前回、『第二巻のカバーの絵は、『王語嫣』と思いますが、薄緑(碧)のお召し物なので、もしかして『阿碧』なのかな?』 と書きましたが、読み直したら、『王語嫣』は「桜鼠色」の服で登場するので、第二巻のカバーの絵は間違いなく『阿碧』ですね。 『王語嫣』でなく『阿碧』をカバーにもってくるなんて、編集の方「良く解ってらっしゃる」(笑)。
 この第三巻のカバーは「喬峯」。 でも今回は、今やその「情けなさ」故か主人公から外されてしまったような評判の慕容復のお話です。

 第1回でこんなことを書きました。
 『「苦」特に「五取薀」としての「テーマ」、「人間の存在」つまり「アイデンティティ」の根幹のようなものを、それも一人ではなく、四人の男主人公を設定し、個別に与えているようです。
 ・蕭(喬)峯:「民族」  ・段誉:「血族」  ・虚竹:「信仰」  ・慕容復:「家」

 慕容復は、他の三人が「丐幇の幇主(江湖最大組織の会長)」「大理国の王子(貴族の御曹司)」「少林寺の小坊主」と、それなりに物語世界での「リアリティ」があるのに対し、「はるか昔に亡びた異民族国家の末裔が、漢族社会の中心のような「姑蘇(蘇州)」に拠点を置き、お家再興・国家復活をはかる」という、いかにも「ありえない設定」「無理難題」、そして「今や面子と建前だけ」残された「お家の使命=実はお題目」を背負っての登場です。
 彼は、父「博」ほどの雄大且つ陰湿な策略を突き詰めることも無く、とはいっても他の主役三人ほど「立ち位置」から離れて現世・俗世の「喜怒哀楽」にのめりこむことも無く、この『面子と建前』に拘りすがりつづけます。 読んで苦笑するような無策・無謀な争いを続け、乗り越えられない父に「自死」も否定され、その父は「お先に・・・」とばかりナゾの高僧の導きで滅諦してしまいます。 そして、王語嫣をふって、虚竹に出し抜かれ、山荘での惨劇を引き起こし、抜け殻のような「狂った皇帝」として「生き残り」ます。 「情けない」人生と言ってしまえばその通りで、情けなさも中途半端です。

 彼のキーワードは、慕容家のお家芸と江湖で評判の『以彼之道,還施彼身(彼の道を以って、彼の身に還す)』の裏返し『以我之道、還施我身(我が道を以って、我に還る)』つまり強引に和訳して『自業自得』(この文が中国語としていいのかどうかは御容赦のほど)。 そして包不同の科白『非也・非也(さにあらず、さにあらず)』です。
 まず、『自業自得』は「物語を読んで字の如く」ですが、お家の武芸名に仕込むとは金庸先生、流石ですね(笑)。
 『非也・非也(さにあらず、さにあらず)』です。 これは、単なる場の「囃子文句」ではなく、これこそ主君である慕容復が「常に自分に問い続け無くてはいけない言葉であった」はずです。 面子と建前に生きざるをえないゆえの自問自答というか、『持続する自らへの異議申し立て』です。 さんざん読者に「ウザイ」(笑)思いをさせ、場をしらけさせ続けた包不同ですが、段延慶に「媚びる」慕容復に、「『非也・非也(さにあらず、さにあらず)』・・・不忠、不孝、不仁、不義の徒」の見事な啖呵を切って、鸚鵡返しの掌打を浴び「澄んだ涙が二すじ、頬の脇を流」し絶命します。 生まれた頃から耳にタコが出来るほど聞かされてきた『非也・非也(さにあらず、さにあらず)』を、今際の極みで拒絶した慕容復は「狂う」しかなかったのです。

 慕容復は、小説の題材として「お家の事情」に対する「若者の自由への意志」の葛藤・挑戦・悲喜劇。 「面子と建前」と「素顔と本音」の対立みたいな「うってつけ」の設定なのですが、ここでは「非也・非也(さにあらず、さにあらず)」。 どうも慕容復を他の三人の生き方と対照的にする為故の情けなさ、という意図がまずありきと感じます。 この対照的という点は後ほど・・・。 まあ実のところは、「四人とも上手く描くのは少々厳しかった」というところなんでしょうがね。

 さて、「性善説」「性悪説」の中間というか、結構言い得てさもアリなんという「性弱説」という造語があるようです。 「人は弱いものだ、悪に誘われ、欲に負ける・・・そのくせ善に憧れ、苦を避ける」・・・「性弱」という字そのままの意味で使われるようです。 この「弱さ」を自ら少しでも支えられるのは、『非也・非也(さにあらず、さにあらず)』つまり『持続する自らへの異議申し立て』ではないか、と感じています。

 ここまでは、「人生訓」的な慕容復の「狂」ですが、「諦念」・「救い」の可能性としての「狂」とは、『慕容復を全面的に赦す阿碧』です。 王語嫣と阿碧は、武学/音楽、理論/感性などの人物設定だけでなく、慕容復を巡っても対照的な「思いの在りよう」をみせる訳ですが、平凡ながら、留守宅で寒さを気遣うあの阿碧がいてこその慕容復物語です。
 最終末で段誉が慕容復と阿碧の二人を見て思う、
 『人にはそれぞれの縁がある、慕容兄と阿碧がこうなったのを、私は憐れと思ったが、当人たちの内心は、幸せに満ちているかもしれない、・・・・』
 という金庸先生の自作の長いお話への「一言感想」がいみじくもそれを言い得ています。 「慕容兄と阿碧」のところに色々な人物を、「私は憐れ」「当人たちの内心は、幸せ」の、憐れ/幸せの所に対照的な感情を充てる、これが「天龍八部」という「人生いろいろ・四苦八苦」というお話の全てです。

さて、次回は「モラトリアム王子」段誉の段よ・・・ です。

 此処から余談。 金庸の小説は、場面や登場人物の心の動きを「説明してしまう、自分の感想を書いてしまう」癖がありますね。 こういう書き方は普通の小説はあまりしないというか避けると思うのですが、『非也・非也(さにあらず、さにあらず)』、故、読みやすい要因でもあるのでしょう。

 続きに第二巻後半の、包不同登場時の王語嫣との掛け合い「非也・非也」五連発を載せますが、駄洒落みたいで直訳しても笑ってしまう愉快な文ですね。 『非也・非也(さにあらず、さにあらず)』、王語嫣も「お茶目」なんですね結構・・・。

 で、ここまでに、何回『非也・非也(さにあらず、さにあらず)』と書いてあるでしょうか??・・・・(笑)
<参考> ・金庸wiki   ・金庸中国語wiki  ・小説天龍八部wiki   ・小説天龍八部中国語wiki  ・仏教天龍八部wiki 

王語嫣卻歡聲叫了起來:「是包叔叔到了嗎?」
只聽得一個極古怪的聲音道:「非也非也,不是包叔叔到了。」
王語嫣笑道:「你還不是包叔叔?人沒到,『非也非也』已經先到了。」那聲音道:
非也非也,我不是包叔叔。」王語嫣笑道:「非也非也,那麼你是誰?」那聲音道:「慕
容兄弟叫我一聲『三哥』,你卻叫我『叔叔』。非也非也!你叫錯了!」王語嫣暈生雙頰,
笑道:「你還不出來?」
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