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天龍八部〈4〉行路茫々天龍八部〈4〉行路茫々
(2002/06)
岡崎 由美、金 庸 他

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 第3回から続きます。 久しぶりの天龍八部です。 NECOさんの「雪山飛狐」の次は、喬峰のレッドクリフ出演記念で「天龍八部」再放送、そしてDVD発売後「鹿鼎記」へ繋ぐのかと思いましたが、一気に「鹿鼎記」放映ですね。 今年中に天龍の記事を終わらせないと、「鹿鼎記」放映とダブってしまいますので、再開。 急ぎます。 そう、第四巻の表紙は「変装用のお面」を持っていますから、變臉(FACE/OFF)「阿朱」ですね。

 今回の記事は、男主角の二人目、『誉は不名誉の「誉」の段誉』です。
 第1回で書いたように四人の男主角にはそれぞれ、
 『「苦」特に「五取薀」としての「テーマ」、「人間の存在」つまり「アイデンティティ」の根幹のようなものを、それも一人ではなく、四人の男主人公を設定し、個別に与えているようです。
 ・蕭(喬)峯:「民族」  ・段誉:「血族」  ・虚竹:「信仰」  ・慕容復:「家」』

 段誉は、大理国王室、それも「親の世代のドロドロ愛欲劇」に放り込まれドップリ漬かるのですが、そう心底から悩んだり苦しんだりしません。 「軽薄」です。 この「軽さ」もらしいのですが・・・。 閑話休題。

 さて、さらに金庸は段誉に、慕蓉復と同じように終始一貫した「生き方」を与えています。 それは、大理国の王子として「在るべき姿になること=大人になること、への消極的拒絶」。 かつて流行った言葉で云えば「モラトリアム」(執行猶予)です。 これは他の四人にも「つければいいのに『分別』がつかない」という形で描かれているのですが、段誉がまず象徴しています。 物語りとして結果的に「感動」するのは、蕭(喬)峯の悲劇ですが、書かれていることは、徹頭徹尾「段誉」的お話です。

 段誉は、登場するなりモラトリアムっぽく「武芸修練はいやだ」と云いつつも、偶然に次ぐ偶然で逍遥派の絶技「北冥神功」と「凌波微歩」を身につけます。 が、やはり「玉璧の仙女」様の方に傾心です。 更にお家の大事に際し「六脈神剣」を生半可に習得し技術的には最強となるのですが、「王語嫣への情愛」が沸き起こらないと機能しないなど、これもマトモではありません。 徹底して「情」>「武」です。
 そして、己の最強の武力を「義侠の為」、つまり己以外の為に使いこなそうというような「努力」をしません。 「道理は通すが、義侠には距離をおく」のです。 「情」>「侠」でもあります。 かといって、己の前にひかれた道を否定しわが道をに挑戦・・・などという「反」の意志もありません。 終始一貫彼は「大理国の跡取りの在るべき姿から「すり抜け」ています。
 段誉は「出来損ない」の、「情」>「武」&「侠」・「非」武侠ヒーローなのです。

 第五巻・第二十九章の中程で、王語嫣につめたくされ「悶々」「自棄」気味の段誉は、反語的・皮相的に、こう呟きます。
 「外から五感を奪っても何の役には立たない。 自分が修業を積んで、『色を住して心を生ずべからず、声香味触法に住して心を生ずべからず、まさに住する所なくして面もその心を生ずべし』の域に達しなければ。 だが、もしも「一切相」を離れ得たなら、それはもはや大菩薩、われわれ凡夫俗人の及ぶところではない。 『怨憎会』『愛別離』『求不得』『五陰盛(取薀)』は、人生の大いなる苦しみなんだ」
 『不住色生心,不住聲香味觸法生心,應生無所住心』,可是若能『離一切相』,那已是大菩薩了。・・・般若経の世界ですね。
 もちろん、段誉に『離一切相』の修練しようなど意志があるわけでなく、変らず目前の「美色」に惑わされ続け、義父「段正淳」と同じように多数の「情人」を得ていきます。 そして「正淳の生き様=ドロドロ愛欲劇、を繰り返す」のだろう、という予感を残してお話は終わります。
 
 この「「非」武侠・モラトリアム王子」段誉が、物語の最初から登場し、殆どの場面に顔を出すも大して狂言回しの役目も果たさず、最後締めくくる。 というという構成こそ、『「現世の人物(ふつうの人)」が少なからず内包する「奇異な個性と神通力」をデフォルメ・象徴化した「非人(ふつうでない人)」達が、現世・俗世の「喜怒哀楽」を味わう』、というこの小説の「基軸」 です。
 段誉が「分別がつかない『情(好悪喜怒哀楽)』」の象徴だからです。

 さて、この日本の宗教家と金庸の対談集は、小説以外の言説が入りにくい状態で貴重ですし、金庸も結構語っています。 その中で、企画としては「義侠」という流れで「三国志」「水滸伝」の話題を取り上げるのですが、金庸は「第一は紅楼夢」と語ります。 紅楼夢は徹底して「情」の物語です。 そして現在「紅楼夢」は「旧弊の打破・個性の解放」という文学的評価がされているようです(毛沢東が賛美したという政治的な意味だけではなく)。
 「問世間情是何物」、これは「神侠侶」の導入譜で、つまり「情」がこの小説の主題だよ、なのですが、結果はどうも金庸先生が「楊過」ひとり暴走させてしまったようで「現世の人物(ふつうの人)」が少なからず内包する」という流れではなくなっています。 過剰なヒロイズムでしょうか。 そして「倚天屠龍記」では張無忌に「なにもさせない」ことにより過剰さを消そうとしたのでしょうが、今度は「個が見えなく」なってしまいました。
 よって、「天龍八部」では、一人のヒーローに依存しないよう四人に役割や性格を分散させ、更に有象無象・多種多様な脇役を設定し、狭い邸宅ではなく広大な中華江湖の世界を舞台として、『情』の物語り「武侠『紅楼夢』」を書こうとしたのではないかと思います。
 そう、段誉は「出来損ない」の「賈宝玉」ですね。 そして主人公達に立ちはだかるのは、本家「紅楼夢」の封建的旧弊(これは「神侠侶」もそうでした)ではなく、「民族」・「血族」・「信仰」・「家」という、四つのより近代的な『アイデンティティ』なのです。

 さて次回は「信仰」の「虚竹です。

 追: 第1回で、 「解題の一節に 『水滸伝』における「母夜叉」孫二娘や、「摩雲金翅」欧鵬のように、いささかの現世の人物を象徴してみた。 とあります。 「孫二娘」は何となく「そうか」と解るのですが、水滸伝には大きなエピソードの無い(小生が読み取れないのでしょうが)「欧鵬」が何故此処に出てきたのかよく解りません。」 と書きましたが、これは「象徴してみた」は、「孫二娘」「欧鵬」ではなく「母夜叉」「摩雲金翅」という「あだ名」のほうに係るんですね。 少々考えれば解る事だったです・・・(笑)。

 <参考> ・金庸wiki   ・金庸中国語wiki  ・小説天龍八部wiki   ・小説天龍八部中国語wiki  ・仏教天龍八部wiki  ・大理国のwiki  ・雲南大理の観光案内はこのサイトと、 このサイトが充実
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