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天龍八部〈7〉激闘少林寺天龍八部〈7〉激闘少林寺
(2002/09)
岡崎 由美、金 庸 他

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 第6回からの続きです。 小説の第七巻は「起承転結」の「転」、天龍八部衆『少林寺』に全員集合。 倚天屠龍記・笑傲江湖でも同じような場面がありますが、特に天龍八部は四本の糸というか様々な流れをこの場面に強引に集約、名場面ですね。 ジャーナリスト作家金庸先生は、やっぱりしみじみした情の世界よりこういった劇場的場面の駆け引きがお得意の様です。
 そう、第七巻の表紙の絵は浅黄色の衫、慕容復ですね。 最初から出ずっぱりのように感じる慕容復ですが、本人が姿を現すのは第五巻「珍龍」の場面が初めてです・・・。 閑話休題。
 本題はこの少林寺の場面と、主人公四人の「親達」の段です。
 
 少林寺の場面は、「ひょん」なことから「すったもんだ」の挙句、逍遥派の掌門かつ縹緲峰霊鷲宮主になってしまった虚竹が、何を想ったか「少林寺へ帰る」こととなり、破戒を懺悔し戒律院に入る所からですが、偶然に偶然が重なり一気にお話が展開します。
 まず、「少林寺」の秘訣を盗んだとして監禁されている印度の学僧を開放し、あわよくば自らも利を得ようと五台山清涼寺の神山大師はじめ、開封大相国寺、江南普渡寺、廬山東林寺長安浄影寺の大師様方が押しかけ、さらに吐蕃(チベット)の護国法王鳩摩智が乱入、宗派対立や教義の差はさておき、さながら「仏教界の勢力争い」の様を呈します。 全く力を失っている印度、「剛・武」>「柔・論」の禅の少林寺、これと逆の五寺院派。 そして、逍遥派(土俗道教的)の内功「小無相功」を基に、小林寺七十二絶技を上乗せした、土俗の民族宗教に仏教の教義を上乗せしたともいわれる「チベット仏教」もどきの鳩摩智のマガイモノ武術。 こういったメタファー・アイロニー、更に技の名前「攝伏外道」「天衣無縫」「袈裟伏魔功」「童貞功」なんて言葉遊びを面白がっていると、またまた突然、お話は展開します。

 丐幇の傀儡新幇主が「少林寺と盟主をかけて勝負」、という策謀の「廻状」を江湖にばら撒き人々が少林寺に集まってきます。 段正淳と何故かご同伴の阮星竹。 丁春秋の星宿派と慕蓉復一派は道すがら戦いながらやってきます。 はたまた四大悪人も登場。 当然王語嫣が居れば段誉あり、荘聚賢には阿紫がべったり(逆か)、と・・・。 丁々発止の入り組んだ小競り合いが続きますが、オオトリで蕭峯と燕雲十八騎の登場。 これ燕雲十六州降龍十八掌をかけてるんでしょうが、漢人を敢えて刺激するようなネーミングでニヤっとします。 余談ですが、星宿派の阿諛追従の、どうも某巨大政党を想わせるような「あてこすり方」は流石。
 ここぞとばかりの盛り上げ「蕭峯・段誉・虚竹三義兄弟団結シーン」など、「闘い」はクライマックスに至ります。 皆さん当世の英雄・好漢・名僧達ですが、実は「忠義」・「道理」など何処吹く風、所詮自分の「欲得」「立場」だけです。 『敵の敵は味方』なんて言ってるうちに自分の立ち位置も分からなくなったり、ある人物が敵でありかつ味方になったり。 『先に裏切ったのだから何でもあり』と言いつつ、味方の裏切りや相手の真意に気づいていなかったり・・・の世界です。
 それにしても物語の流れを一気に纏めてしまう筆力は流石です。

 そして、段々と「本当のこと」がみえてきて、虚竹の両親玄慈大師と葉二娘は罪を償うようにともに自死します。 死んだはずの蕭峯・慕容復の親、蕭遠山・慕容博が、子の世代蕭峯達に降りかかった悲劇の因縁であることも二人の「確信犯的告白」で明らかになります。 結局このお話は、段誉もふくめ「親の因果が子に報い」なのですが、さらに策略の上乗せを謀る慕容博など呆れるばかりです。
 ここで掃地僧(謎の老僧)が登場します。 彼の科白には、物語の一片以上の作者の分身として「謂いたいこと」が含まれているような気がします。 アイロニカルなものではなく「本気」で謂ってると思います。

 鳩摩智達にはこう語ります。
 「仏門の弟子が武芸を学ぶは、体を鍛え、仏法を護るためなれば、いかなる技を修めるときも、心に慈悲の心がなくてはなりませぬ。 さもなくば、きっと修練の際にわが身を損ない、技が上達すればするほど、傷も深くなりますのじゃ。・・・」
 「・・・上乗の技は、日ごとに仏法の慈悲をもって悪逆の気を調和せねば、毒気が臓腑をむじばむこと、いかなる毒物にもましてすさまじい、・・・慈悲を施し、衆生を済度するお志なくしては、仏典の知識もたくみな弁舌も、悪逆の気を払うことはできませぬぞ。」
 「七十二絶技はことごとく、人を傷つけ、命を奪うに足りるもの。 そのむごさは天の和をそこないまする。 それゆえ技のひとつひとつを、相応じる慈悲の仏法にで調和せねばなりませぬのじゃ。・・・仏法は世を救い、武技は人を殺めるもの、本来このふたつは背反し、相克しあっておるのです。 悟りを高め慈悲の心を強くすれば、・・・人殺しの技を学ぼうなどとは思わなくなるもの。」

 これらの言葉に耳をかさなかった鳩摩智は終には破綻し、古井戸で「平和主義者」段誉にその内功を与えることとなります。 メタファーとしての「武」「仏」の意味するところを考えてみるのもいいのですが、これはさておきます。

 仏法の修行が足りぬまま絶技を身につけようとし、破綻した玄澄大師をこう評します。
 「とはいえ、五蘊はみな空、色身は傷つき、武芸の道は閉ざされたが、これによって仏法への道が開かれたのは、わざわいより福が生じたと言うべきでござりましょう。」

 鳩摩智と同じく、「武」のみを習得しようとし体に異常を来たしている蕭遠山・慕容博にはこういいます。
 「あなた様の傷は、少林派の技を修練したゆえのもの、これを癒す道は仏法の中に求めねばなりませぬ。」
 「仏は心より生じ、仏はすなわち寛なるもの。 はたのものは助力はできても、代わりを引き受けることはかないませぬ。・・・」

 この辺は、第5回で引用した金庸が仏教に帰依した苦しい経緯をみるようです。
 両親に代わって闘おうとする蕭峯・慕容復にはこういいます。
 「お二方とも、仏門の聖地にて無明の業火を燃やしたもうな。」
 争いごとにあけくれた時代から、次世代へのメッセージのようです。

 そして、蕭遠山・慕容博は、掃地僧(謎の老僧)の一撃で「亀息」の眠りにつき、「四つの手を握りあわせ、内息を通じて陰陽を調和させるのじゃ。 王覇の夢も血の恨みもすべては塵と消え失せよ!」という導きで、「生から死へ、死から生へ巡る」ことにより、涅槃で待つとばかり、悟り、「あちら側」へいってしまうのです。

 蕭峯・慕容復、そしてこの後「血の真実」を知る段誉も含め、「子の世代」は「現世」に取り残されます。 彼らの「親たち」は「確信」して三毒に浸かり・四苦八苦にまみれてきました。 一方子供達は、建前の慕容復、モラトリアム段誉、割り切れない蕭峯と、親の世代の生き様に比べどうも「腰が引けている」「覚悟が足らない」のです。 それを試すべく大「結」局を迎えるわけですが、金庸先生の迷いもあるのか、いまひとつ吹っ切れない、後味が良くない結末です。
 この辺は最終回にて・・・。

 
 <参考> ・金庸wiki  ・金庸百度百科  ・金庸中国語wiki  ・小説天龍八部wiki   ・小説天龍八部中国語wiki  ・小説天龍八部百度百科  ・仏教天龍八部wiki  ・大理国のwiki  ・雲南大理の観光案内はこのサイトと、 このサイトが充実  少林寺の公式サイト
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