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hon8
天龍八部〈8〉雁門悲歌 金庸著 土屋文子訳 

 小説のほうは最終第八巻、表紙の絵の「トリ」は全身パープルの「阿紫」ですね。 いくらなんでも眸まで紫・・・、まなざしも凶暴です。 この眼は元々遊担之のものですから、もっと哀愁に満ちた優しい眼にしてあげないと・・・浮かばれませんよ、ね。
  第7回より続きます。
 最終巻は此処までの書き方、特に阿朱が死ぬあたりまでと比べると、粗っぽく、雑で、急ぎすぎの感があります。 じっくり書いたら、この巻だけで3冊分くらいではないでしょうか。 特に段正淳と情人たちが慕容復に殺される場面は、あまりに「理」に奔った書き方で「情」が感じられない、と言い切っていいと想います。 閑話休題。

 まず、「古井戸」の場面からです。 ここは慕容復が「お家」の建前に拘って王語嫣をふって、タナボタに段誉になびいてしまう。 その際鳩摩智が何故か乱入し、間違った修行で死に掛けていた処を、段誉の「北冥神功」で内力を抜かれた故命が繋がり、こう言います。
 「・・・ああ、貪・瞋・癡の三毒をあわせもちながら、恥ずかしげもなく高僧を自負しておったとは、死後は無間地獄に落ち、万劫不復の身となろう」 ・・・そして、猛然とこう悟るのです。
 (如来が弟子を導く折は、まず貪・瞋・癡を捨て去り、ようやく解脱の望みが出る。・・・いま武芸を失ったのは、まさに正道に立ち返り、清浄解脱を得るようにとの、釈尊のお導きではあるまいか?)


 虚竹は、天山童姥・李秋水対決の最後でも、こうつぶやいています。
 (みほとけの仰せでは、人の世には貪・瞋・癡の三毒があるという。 お三方とも抜きん出た武芸の達人なのに、この三毒に苦しめられることでは、世俗の凡人と変わりなかったんだな)

 此処まできたら、「三毒」に少々付き合ってみたくなります。
 三毒wiki参考)(三つの煩悩wiki参考))は、かつて諸先輩に一度は読めといわれたこの本によると、
  * 貪(とん): 貪り又は愛欲。 愛し、貪り、執着すること。
  * 瞋(しん): 憎悪。 嫌悪し、次に憎悪し、さらに打ちのめし害すること。
  * 癡(痴・ち): 迷妄・愚癡(ぐち)。 真実のすがたを知らず、迷ってぼうとしていること。 (各リンクはwiki)
 とのことです。 言葉の意味というより、感覚的には、 『貪(とん)』と『瞋(しん)』は、『愛憎』は表裏一体。 様々な「欲」を求めれば阻むものありそれが憎くなる。 得られなければ、そのもの自体を「嫌い」「憎む」こともある。 などまあなんとなく分かります。
 では、三番目の『癡(痴・ち)』は、いわば「本当の事」とおもっていいのでしょう。 軽い表現では、「いや実は・・・(苦笑)」。 まあ著名な作家の小説の一節により大げさにかつ結構分かりやすく言えば、
 「ひとりの人間が、それをいってしまうと、他人に殺されるか、自殺するか、気が狂って見るに耐えない反・人間的な怪物になってしまうか、そのいずれかを選ぶしかない、絶対的に本当の事」
 「天山童姥・李秋水」でいえば、無涯子の真のおもいびとが二人のどちらでもなく「秋水の妹」だったこと、それを『知らずに(癡(痴・ち))』、得られるはずのない『貪(とん)』、死ぬまで続いた互いの『瞋(しん)』に浸かってきたこと、です。
 段正淳とその情人一行様、蕭遠山・慕容博・玄慈大師はじめ雁門関の真実に係わった者達、丁春秋・康敏・鳩摩智・段延慶・葉二娘・・・三毒まみれの自分を「確信」して生きてきた四人の主人公の「親の世代」達は皆、『他人に殺されるか、自殺するか、気が狂って見るに耐えない反・人間的な怪物になってしまうか』です。 ただ、彼らはこの「生き方」以外に何が在ったのでしょうか? 死、或いは死と同じ状態となり初めて「愛」を得て「憎」を忘れ「本当の事」を受け入れられ、「苦」から開放されたのでしょう。
 それに対し、子の世代の四人、「建前と面子の慕容復、モラトリアム段誉、割り切れない分別のない蕭峯、世間知らずの虚竹」・・・は。

 つづいて、西夏皇女の「夢郎」探しの為の「三つの問い」です。 これは、四人の主人公が救われる為の最後のチャンスとして、特に『慕容復』と『蕭峯』に対して与えたものだったのでしょう。
 Q1: 「これまでのご生涯で、いちばん幸せに過ごされたのは何処でしょう?」
 Q2: 「いちばん大切なお方は、お名前をなんともうされます?」
 Q3: 「その方はどのようなお顔をしておいでですか?」

 まず、段誉は思わず、『A1:「古井戸」』と言ってしまい、部下にたしなめられ、大理の王子様として『A2:「父上と母上」』と答えますが、A3:「・・・(そういえば私は母上似で父上には少しも似ていない・・・)」と思います。 父上に似ていないは次にくる「本当の事」への前フリですが・・・まあ、「ちゃらんぽらん」段誉は変りません。
 次に、慕容復は「らしく」、「A1:『それは未来においてであって、過去ではない』」 「A2:『愛するものなどいない』」 A3:「よって答え無し」 ただ、彼は此処でこう感じています。
 いざ自分が問われると、慕容復は答えに詰まった。 ・・・その実、真の幸福を味わったことは、一度たりともないのである。 ここで、包不同の「非也、非也」、「自分自身を問い直すことがあれば・・・」彼は変れたかもしれません。 この後の「狂気」に至ることもなかったのではないかと思います。
 そして、蕭峯は逃げてしまいます。
 阿朱に思い至ると、胸が疼いて傷心耐えがたく、他人の前で心情を吐露する気にもなれないので、ただちに石室を立ち去った。
 胸が疼くならもっと彼女の言葉、姿、行動を思い出して欲しかった。 そうして「漢人」「契丹人」の二項対立が如何に無意味であるか考えて欲しかった。 彼にとって「契丹人であったこと」「阿朱の死が「本当でない事の二重の思い込み」が原因であったこと・・・・など、あまりにこれまで彼にふりかかった「本当の事」が重いとはいえ・・・です。
 最後に虚竹が「無心」にこの「三つの問い」に答え、夢姑との再会を果たすのですが、此処までくると「無心」が裏返り、どんどん「三毒」まみれになっていくのが眼に浮かびます。 何しろあのドロドロ愛憎まみれ「逍遥派」の次世代掌門ですから・・・。
 ただ、自分自身を問い直すことができない慕容復、二項対立が如何に無意味であるか考えられない蕭峯、「そうならないが故」の彼ら自身なのです。

 この四人の若い主人公達は、私たち読者と何も変らない「世俗の凡人」です。 「四苦八苦」に怯え、煩悩を滅せず、とはいって覚悟の上「三毒」に浸りきるわけでなく、「建前と面子」に拘り、在るべき姿になりたくない「モラトリアム」、「割り切れない、分別のない」、そして「世間知らず」・・・。 皆、何処か、慕容復であり、段誉であり、蕭峯、そして虚竹 なのだと想います。 この妙なリアリティがこの小説の面白さであり、妙な感動を与えてくれる所なのか・・・と思います。

 <参考> ・金庸wiki  ・金庸百度百科  ・金庸中国語wiki  ・小説天龍八部wiki   ・小説天龍八部中国語wiki  ・小説天龍八部百度百科  ・仏教天龍八部wiki  ・大理国のwiki  ・雲南大理の観光案内はこのサイトと、 このサイトが充実  少林寺の公式サイト
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