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 今回は、前半の「泣かせ」の山場、「康熙帝」と「行痴大師」の束の間の再会と別れの場面でしたね。 その前に「道士」達の襲撃から「行痴大師」ご一行を救う「小宝」の頓智話がなかなかですが、「あれ?!ここで襲ってくるのは何千人という喇嘛(ラマ)じゃあなかった??」と一瞬ポカン(笑)。  あのシーンの人の少なさや安っぽさはどうも「後から造り直した」ような?? そんなに「チベット問題」に気を遣って検閲、いや改編しなくてもいいのに・・・ねと。

 さて、今回はこの回でサワリだけだったこの本をずっと辿っていきます。 興味を引いた所の「抜書」と他愛の無い感想だけですが御免・・・。
 
五台山 (東洋文庫)五台山 (東洋文庫)
(1995/09)
日比野 丈夫小野 勝年

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 「喇嘛教」(今はこの呼び方はまずくて「蔵伝仏教チベット仏教)」というのですね)、ショウブラ功夫映画のころから「悪役」が多いのですが、それもそのはず、清朝の国教だったわけで、それで某国の軍隊には及ばずとも「敵役・嫌われもん」なんでしょうな。 まあ小宝などは「どうせ坊主になるなら戒律の厳しい禅僧より、酒色OKの喇嘛のほうがいい(爆)」なんて言ってますが(笑)。

 どうも、わたくしめは「チベット仏教」という言い方より、「喇嘛教」のほうが馴染むのです。 「如何にも清朝の満・漢・蒙・蔵のごちゃ混ぜ複合文化のシンボル」のような、北京の「雍和宮」リンク2 リンク3)や、フホホトの「大召寺」に行った時の印象が強いからでしょうか。 喇嘛教と書くと、こんな理知的なチベット仏教の雰囲気学者さんの本と違って、妙に俗っぽく、「衒学」的胡散臭さ、有象無象・魑魅魍魎な感じになるのは、シャーマンに繋がる各地の民俗の素朴な信仰仏教的なものが混ざり合って、そこに世俗の覇権・政治が絡んでくるからなのでしょうか。

 本に戻って、五台山は仏教伝来とともに「文殊(師利)菩薩」のおわします「聖地」となり、世につれ繁栄と衰亡を繰り返してきたようです。

 ただ喇嘛教も中国伝統の仏教も区別して考える必要はないようです。 この本では喇嘛教についてこう書いていますので、まず引用します。
 「喇嘛」とは漢人が西蔵人や蒙古人の僧侶をさして言う言葉に過ぎない・・・ ・・・中国にはかかる(喇嘛教)言い方は無い・・・ ・・・所謂る喇嘛教が従来の仏教と区別されるのは、むしろ地域的、民族的な点にあるのであって、漢人と対立する西蔵・蒙古・満洲等の民族に信仰せられる仏教という意味であろう。
 『漢人と対立する・・・・民族に信仰せられる仏教』って、それじゃ日本のお坊さんも喇嘛?・・・なんて野暮なツッコミは無し(笑)

 さて、「明末」(16世紀後半)には、喇嘛教が蒙古族に「支配層」だけでなく広く人々に信仰されるようになったようで、また女真族がヌルハチの元「集団」として力を付けてくるという時期と重なってになるわけですね。 Wiki から引用すると、

 その(ヌルハチの)子のホンタイジ(皇太極、太宗)は山海関以北の明の領土と内モンゴルを征服し、1636年に女真族、モンゴル人、漢人の代表が瀋陽に集まり大会議を開き、そこで元の末裔であるモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽(後に作られた偽物である可能性が高いが)を譲られ、大清皇帝として即位するとともに、女真の民族名を満洲に改めた。尚、この満洲という民族名は文殊菩薩に由来していると言われており、後金国の段階から満洲王朝はラマ教を保護していた。 
 同じような内容ですがやはりWikiから引用です。
 チャハル部は高原東部から東北平原(満州)にかけて最大の勢力でありつづけ、17世紀に入るとリンダン・ハーンが立って大ハーンによる全モンゴルの支配を復活しようとした。この強権支配を嫌ったホルチン部は満州人の後金(清の前身)と結んで対抗した。後金のヌルハチはチャハル部をたびたび破り圧迫したので、リンダン・ハーンは新天地を求めて西方へと移動を開始し、内モンゴル中部のハラチン、西部のトメトを次々に併合すると、黄河の屈曲部に入って右翼の盟主オルドスを屈服させたが、1634年に死去した。
 リンダンが死ぬと、その子エジェイは後金との抗戦を断念し、後金のホンタイジに降伏した。このとき、リンダンが保有し、チャハルのハーンによるモンゴル再統一の正統性の象徴としていた元の玉璽がホンタイジの手に渡り、ホンタイジはこれを天命が交代した象徴として、1636年に国号を金から大清に改めた。これ以来、清の皇帝はチャハル王家にかわって全モンゴルのハーンとして君臨することになる。
 (あの孝荘太皇太后や孝恵章皇太后はホルチン部の出身です)

 そしてこの本にはこんな記述がありました。

 『奉天の場外に実勝寺(俗称黄寺)という有名なラマ寺がある。 この寺には、清朝の天聡八年太宗がチャハル(察哈爾)のリンダンハーンを征伐した時に、メルゲンラマがはるばる携えて来た護法マハカラ像が祭られている。この像は伝えによると元の世祖フビライのときにパスパが千金を費やして鋳造し、五台山に奉祀したものであった。それがいつの間にか砂漠に移され、更にサルバフトクトというものがチャハルにもたらしたものと言われている』 (Wikiのいう「内モンゴル」はチャハル以東のことですね。 カタカナは漢字変換を省略御免です)

 ということは、「信仰(教)」のシンボル的「護法マハカラ像」も蒙古族から手に入れた。 玉璽やマハカラ像が「言い伝え」であったとしても、この時期に蒙古に対し「政・教」とも覇権を手にした、又「政・教」一致の「蔵」に対しても影響力を確保した。 ということで、清初「喇嘛教」は、満・蒙・蔵「相互安全保障の手段」として、清(満)からみれば「懐柔・統治・牽制」の手段であり、蒙・蔵にしてみれば「抑止・担保・切札」であったようです。 引用を続けます。

 順治元年山海関入関に先立って、使を西蔵に遣わして第五世達頼喇嘛を訪い、その東方巡錫を勧請している・・・・同五年・・・七年にも・・・ ・・・達頼喇嘛も、・・・いまだ東方巡錫を実行しようとはしなかった。 順治八年清朝ではまた使を遣してその入覲を促した。その結果、遂に翌年に至って、達頼喇嘛ははるばる北京を訪れたのである。これに対する、順治帝の優遇ぶりは、まったく驚くべきほどのお祭り騒ぎであった。達頼喇嘛=ダライラマ
 かかる交渉は、西蔵・・・の班禅喇嘛、外蒙古庫倫の第一世哲布尊丹巴呼図克図に対しても同様に行われた。殊に後者に対しては康煕帝の時代になってから愈々関係が綿密となり、その礼遇は鄭重を極めた。喀爾喀部が清朝に服属するに至ったのは、この呼図克図の力によるのである。・・・・康煕に十七年、西方蒙古別部の準喝爾部の酋長喝爾丹が外蒙古に侵入してきたとき、・・・・露西亜に保護を求むべきか、清朝に藩属してこれに依頼すべきか、・・・このとき仏教を信奉せる清朝を奉載すべきことを説き、喀爾喀部をして清長に内属せしめる動機を作ったのは、哲布尊丹巴呼図克図なのである。班禅喇嘛=パンチェンラマ喀爾喀=ハルハ準喝爾=ジュンガル喝爾丹=ガルダン

 この後も、喇嘛教は清朝に優遇されようで、この本ではバイアスが掛かってはいますが、こう言いきっています。
 喇嘛教による蒙古懐柔政策は非常な成功を収めた・・・ ・・・清超が蒙古の懐柔に成功を収めたことは歴史上かかる頗る重大な意義・・・ ・・・漢民族を制圧し、三百年の国家の基礎を確立し得たともいい得るのである。

 さて、「政治的手段」として「喇嘛教」を「国教」とした清朝ですが、康煕・雍正・乾隆帝時期には、こまめ且つすこぶる丁寧に「めんどうをみて」来たようです。 そして「文殊(師利)菩薩」のおわします五台山を、これまで以上に「聖地」として参拝し、数々の寺、特に喇嘛教の、を建立・整備して来たようです。
 康煕帝は五度参拝し、康煕ニ十二年には太皇太后を伴っており、この辺の「熱心さ」と諸々の「風説」が、順治帝の五台山出奔の「伝説」を創ってきたらしいですね。
 それに、順治帝が喇嘛教の寺ではなく、伝統中国仏教系の「清涼寺」に得度した、というのは、「漢人」の皇妃を寵愛、董小苑伝説など、これまた「国是・国教」に反す行動として「漢」の皆さんの「ネタ」になって盛り上がったのでしょうね。

 今夜はここまでにします。

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