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 雅克薩と露西亜(羅刹)部分は見事にすっ飛ばしましたね。 「遂鹿関外」で巨乳公主と小宝が争って、公主が自爆、結果仲良く、という結構な「喩」は効いていましたが・・・(笑)。

 ドラマはどうも改編ではなく「カット」の連続らしいので、お話の「オッカケ」はもう「さておいて」しまいます。 この辺から原作も「仕込みの回収」の段階。 それも小宝の言を借りた「あてこすり」「毒舌」の山です。 原作のあの小宝ママの「大オチ」以外「面白くない」ですから(笑)。

 ということで、古往今来的第一「小滑頭」!と九難師太に揶揄された小宝ですが、金庸先生自身『韋小寶這小傢伙』(韋小宝のおチビさん)という「自己解題・武侠小説・中国人論」を書いています。 原文はこちらからリンク・・・。 主旨は何とか読めるような感じでしたので、この文を元に「私の『鹿鼎記』読書感想文」を書いてみたいと思います。 今回はその1です。
 
 『韋小寶這小傢伙』から、流れに沿って抜粋しながらあれこれ書いてみます。(抜粋部は斜字。 カッコ内は自動翻訳の助けを借りて訳しました。 誤訳は御容赦)

 人的性格很複雜。 (人の性格はとても複雑です。)
 我個人的看法,小說主要是寫人物,寫感情,故事與環境只是表現人物與感情的手段 (私個人の見方では、小説は主に人物、感情を書くので、ストーリと環境はただ人物と感情の表現の手段です)
 人的性格卻每個人都不同,這就是所謂個性。 (人の性格はすべての人はすべて異なっていて、これはいわゆる個性です。)

 金庸先生は、書いた小説はまず「人物の個性、造形と性格描写」ありき、っま物語の出来や破綻など「御容赦」ってこと?(笑)
 早速余談ですが、小宝の七老婆ですが、「各人の好い所を併せると完璧」なんですね。 阿珂の「美貌」、方怡の「機転」、剣屏の「純真」、双児の「健気」、蘇荃の「知恵」、曾柔の「優しさ」、そして建寧公主の「強気」・・・。 まあ同じことが原作にもチラッと書かれてますが、鹿鼎記までは、女性の登場人物の造形で、「完璧」を求めたり、複雑に対立させてみたり、時代の典型を造ったり、でしたが、最後少々小細工をしましたね。 斜に視れば「誰にでも好いところはあるのだ、それを見出して・・・」といういいお話です(笑)。 閑話休題。

 他性格的主要特徵是適應環境,講義氣。 (彼の性格の主要な特徴は環境に適応すること、義侠心を重んじること、です。) 
 ここの「彼」はもちろん『韋小宝』ですね。
 最善於適應環境的人,不一定是道最高尚的人 (最も環境に適応することに優れる人が、道徳の最も高尚な人とは限りません。)
 その通りですね。 悪人こそ生き残り、自らの悪は隠して記録(歴史化)する、ということでしょうか。
 道是文明的產物,野蠻人之間沒有道。 (道徳は文明的な産物で、野蛮人の間は道徳的ではありません。)
 まあ、「道徳」故、文明といえる、ということでしょう。
 韋小寶自小在妓院中長大,妓院是最不講道的地方;後來他進了皇宮,皇宮以是最不證明道的地方。在教養上,他是一個文明社會中的野蠻人。為了求生存和取得勝利,對於他是沒有什麼不可做的,偷搶拐騙,吹牛拍馬,什麼都干。 (韋小宝は、幼少から妓楼の中で成長して、妓楼は最も道徳的を重んじない場所です。 それから彼は皇宮に入って、皇宮は最も道徳的な場所でないことを証明しています。 教養の上で、彼は1つの文明的な社会の中の野蛮な人です。 生き延びようとして勝利を収めるため、彼についてしてはいけないことは何もないので、こっそり奪い取ってだまし取って、ほらを吹いておべっかを使って、何でもします。)
 この通りの彼の生き方、つまり「個性」です。
 妓楼と皇宮を並べてどちらも「不道徳」と言い切っちゃってますね。 そういえば、小桂子が最初に皇宮に迷い込んだ時「でっかい妓楼」だ!とか、小玄子が「良い服」を着込んで歩いているのを「金持ちの旦那の女郎買いか?」、なんて言わせてましたね。

 さてこの辺から本題に入ってきます。
 韋小寶不識字,孔子與孟子所教導的道,他從來沒有聽見過。 (韋小宝は字が読めないので、孔子と孟子の教えた道徳を、彼はこれまで見聞きしたことがありません。)
 然而孔孟的思想影響了整個中國社會,或者,孔子與孟子是歸納與提煉了中國人思想中美好的部分 (しかし孔孟の思想は全体の中国の社会に影響を与え、あるいは、孔子と孟子は中国人の思想の中の良い部分を帰納して抽出したものではあります)
 江湖唯一重視的道是義氣,「義氣」兩字,從春秋戰國以來,任何在社會上做事的人沒有一個敢勿視。 (市井で唯一の重視される道徳は正義感です、「義気」の二文字、春秋戦国から、いかなる社会でも事をなす人は無視することはありません。)

 もう一つ重要なものはこれだよ、と書いています。
 中國社會中另一項普遍受重視的是情,人情的情(中国の社会の中で別に一つあまねく重視されるが情です、人情の情です。)
 「義」の次は「情」ですね。 更に続きます。
 
 統治者講究「原則」。「忠」是服從和愛戴統治者的原則;「孝」是確定家長權威的原則。「禮」是維護社會秩序的原則;「法」是執行統治者所定規律的原則。對於統治階層,忠孝禮法的原則神聖不可侵犯。 (統治者は「原則」を重んじます。 「忠」は統治者の原則を従って敬愛するのです;「孝」は家長の権威のある原則を確定するのです。「礼」は社会の秩序の原則を守るのです;「法」は統治者を実行して規則の原則を決めたのです。統治階層(支配階級)では、忠・孝・礼・法の原則の神聖さは侵犯してはいけません。)
 「忠」「孝」「礼」「法」は統治者(支配階級)にとってのみ重要な「原則」にすぎないのだ。 と言い切ってます。

 「孝」本來是敬愛父母的天性,但統治者過分重視提倡 (「孝」はもともと両親を敬愛するという天性です、しかし統治者は過度に重視し提唱しました)
 本来「天性」つまり「情」の域にある「孝」を、「原則」にしてしまった。ということでしょう。
 在民間的觀念中,「無法無天」可以忍受,甚至於,「無法無天」,是蔑視權威與規律,往往有一些英雄好漢的含義。但「無情無義」絕對沒有,被摒絕於社會之外。 (民間の観念の中では、「無法の限りを尽くす」は辛抱することができます、甚だしきに至っては、「無法の限りを尽くす」、つまり権威と規則を蔑視することは、よく英雄と豪傑を意味します。 しかし「義理も人情もありません」は絶対になくて、社会の外に捨てられます。)
 甚至於,「無無恥」的人也有朋友,只要他講義氣。 (甚だしきに至っては、「ごろつきで恥知らず」の人も友達がいます、彼が義侠心を重んじさえすれば。)
  「法」是政治規律,「天」是自然規律,「無法無天」是不遵守是不遵守政治規律與自然規律;「無無恥」是不遵守社會規律。 (「法」は政治の規則で、「天」は自然の法則で、「無法の限りを尽くす」は、政治の規則と自然の法則を守らないのことなのです;「ごろつきが恥知らず」は社会の規則を守らないのです。)
  但在中國社會中,「情義」是最重要的社會規律,「無情無義」的人是最大的壞人。 (しかし中国の社会の中で、「情義」は最も重要な社会の規則で、「義理も人情もありません」は最大の悪人です。)
  傳統的中國人不太重視原則,而十分重視情義。 (伝統の中国人は原則を重視します、それより非常に情義を重視します。

 読んで字の如くですね(笑)。

 重視情義當然是好事。 (情義を重視するのは当然によい事です。)
 中華民族所以歷數千年而不斷壯大,在生存競爭中始終保持活力,給外族壓倒之後一次又一次的站起來,或許與我們重視情義有重大關係。 (中華民族は数千年にわたって絶えず強大になって、生存競争の中でずっと活力を維持して、他民族に圧倒された後も一回また一回の立ち上がってきた、もしかすると私達と情義が重大な関係があることを重視します。)

 中華民族が結果的に生き残ってきたのは、「情義」を重視したことによるものだ、という意見ですね。

 古今中外的哲人中,孔子是最反對教條,最重視實際的。 (古今東西の哲人の中で、孔子は最も教条に反対し、最も実際的なことを重視します。)
 これは、面白いです。 我々にとっては「教条的」にみえる孔子は、実は「実際的」(現実主義)だと。 確かに書かれている内容は、現世の今、どうすべきか・・・ということですね。
 孔子哲學的根本思想是「仁」, (孔子の哲学の根本的な思想は「仁」)
 「人情」是「仁」的一部分。 (「人情」は「仁」の一部です。)

 はい、そうですね。 としか言い・・・。
 孟子哲學的根本思想是「義」。那是一切行動以「合理」為目標,合理是對得住自己,也對得住別人。對得住自己午容易,要旨於不能對不起別人,尤其不能對不起朋友。 (孟子の哲学の根本的な思想は「義」です。 これはすべての行動が「合理」を目標にするので、合理的に自分に申し訳が立つので、他の人にも申し訳が立ちます。自分の正午?に申し訳が立つのは容易で、要旨は他の人に申し訳ないので、特に友達に申し訳ないことはできません。)
 ここが上手く訳せないのですが、「理」に合うということは、それは自分も他者も同じく「理に合わなくてはいけない」ので、つまりそういう「理」が「義」ですよ。 ということでしょうか?。
 所謂「在家靠父母,出門靠朋友」。父母和朋友是人生道路上的兩大支柱。所以「朋友」與「君臣,父子,兄弟,夫婦」的關係並列,是「五倫」之一,是五大人際關係中的一種。西方社會,波斯,印度社會並沒有將朋友的關係提到這樣高折地位,他們更重視的是宗教,神與人之間的關係。 (いわゆる「家では両親に頼って、外では友達によります」。両親と友達は人生の道の上両の大きい支柱です。だから「友達」と「君臣、父と子、兄弟、夫妻」の関係は並んで、「五倫」で、五大人間関係の中のひとつです。西方の社会、ペルシア、インドの社会は友達の関係をこんなに高い地位におくことに言及しておらず、彼らの更に重視したのは宗教で、神と人の間の関係です。)
 どうもそのようですね。
 在社會教條或宗教教條下僵化了。沒有彈性的社會,變成了殭屍的社會。 (社会の教条あるいは宗教の教条の下で硬化しました。弾力性の社会がなくて、しかばねの社会になりました。)
 宗教と規律を重視した社会・民族は「弾力性」(柔軟性かな)が無く、互いに戦いに明け暮れ、「死滅」した。 という意見のようです。

 中華民族(この定義自体「弾力性」ゆえ「アヤフヤ」ですが(笑)が、数千年生き残ってきた、この>「環境適応力」は、宗教・法・規律など「原則」ではなく、「情義」によるものだ。というのが、金庸先生のまずい言いたいことのようです。 

 さて、ここの「情・人情」はなんとなく判りますが、「義」とは前記の孟子の訳がどうも上手くいかないように、今の私にとっては「アヤフヤ」です。 それは「小説」をよく読め!ということでしょうが(笑)。 「義」というのを、現在の世界においてもっと注目されていいのではないかと思っております。

 これで、この論の半分程度です。ここから、義と情と武侠小説へ論は展開されますが、これは次回以降で。

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