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 前回の記事は何を云いたいのか・・・よく解らなくなっております。 といって、整理されたかというと全然ダメで、仕方なし・・・徒然にいくことにします。

 金庸は、「文学者・作家」志望であったわけでなく、所謂「流れ」で「武侠小説」を書くことになったのは周知のことです。 執筆にあたっては、旧来の「正邪善悪」「愛憎恩仇」の二項対立と、それに翻弄される登場人物たちの悲喜劇・・・という「典型パターン」ではなく、何がしか「新しさ」を取り入れたいと思っていたようです。 『書剣恩仇録』では、初めての小説創作、それも習作期間もなく書いたこともあり、乾隆帝漢人説・杭州風情など、自分の経験や知見に基づく「想像力」の範囲から筆を進めました。
 そして、『書剣恩仇録』と『碧血劍』の二作における主人公の造形では、近代文学の手法もである主人公に「自分自身」を仮託、「自分を主人公」にした物語を書いたのだと考えます。

 前回、碧血劍は、舞台の「明末を当時の政情のメタファー」と書きました。 ’40年代に、現政権の功労者でもある「大歴史家」を中心に、清を「日本」、明を「民国」、李自成を「某大政党」に喩え、『李自成は「農民革命軍」であった、我が大政党が李自成のように亡びず「覇者」になるには如何にすべきか?』 という歴史論、所謂「影射史学」を展開していたのです。 この「似非史学」を物語の枠組みに諷刺としても活用し、主人公袁承志の造形と行動に、「自伝的要素」と「情況に対し想うところ」を織り込んだように思えます。
 『碧血劍』が金庸連作の中で、比較的読みやすく入り込みやすいのは、この「方法」が明確であり、我々読者も数々の歴史モノでこのような書き方に馴染んでいるからでしょう。
 袁承志は、反臣との汚名をきせられた名門の御曹司に生まれるも、王朝交代期の激動の中で、結局新旧どちらにも期待出来ず、加担できず、最後遠く「ブルネイ」へ飛んだ・・・もちろんブルネイは香港であり、承志は金庸先生です。 同じように「士」の典型である「陳家洛」が、最後、乾隆帝を信じてしまったこと、カスリーとの関係おける「情義」の無さ、何かこれまでの人生で「拙かった」と想いつつ、「やむを得ず、あれしかなかった」という、「自分の経験」によるものだったのかもしれません。 これは全くの推測ですが・・・。
 このあまりにも直接的な「メタファー」は限界があります。 この形で「書き続けること」は無理でしょう。 もう少し創造的な「物語性」が欲しいところです。

 「射雕英雄伝」では次の「方法」を展開しました。
 
射雕英雄伝 〈1〉砂漠の覇者ジンギスカーン射雕英雄伝 〈1〉砂漠の覇者ジンギスカーン
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 まず、時代背景を、あまり現代の「影射」とはならない「金元交替+南宋」から始め距離を置きました。 これは、宋代が「今に続く儒教的価値観が遡れる限界」の時代であるからかもしれません。
 そして、主人公はあくまで「普通の人」=「野」の人としたのです。 それが平凡、「愚鈍」とも云える「「郭靖」です。 彼が「江湖」=「渡る世間」で如何に「生きていくか」(成長するか・・・ではない)を「人間ドラマ」の軸とし、小説の中では最初は「官(武林の大立者)」にも「士(武術の達人)」かその「卵」にせず、徹底して「野=普通の人」のイメージに終始させていきます。 降龍十八掌や九陰真経などの絶技を習得しますが、これも「目標として努力」したものではなく、「ヒトの良さから偶然に授かった」性質のものです。
 一方、武侠小説という看板には必須の、「情義」に溢れた「侠」、「悪人・悪女」など、「正邪善悪・愛憎恩仇が明確な完成された様々な個性」は、全て脇役それも如何にも人生経験豊富な「年長者」に割りふりました。 その「我が道を行く脇役達=「世間」が、勝手に物語が進めていく」というスタイルを取り入れたのです。 まるで物語の中に読者本人が放り込まれたような感覚になります。 物語を「外」から読むのではなく、「中に」入り込んで「世間」を主人公と同じように味わうことが出来ます。 この辺は若い読者向けにも「ねらい目」でもあったと想います。

 もう一つの方法は、主人公と同世代で正反対の個性と人生をおくる登場人物による対比です。 「郭靖」「楊康」の対比は、親が「義兄弟」であり、「官」と「野」に別れ、まったく違う個性の女性に惚れ(惚れられ)、真逆の人生を送っていく・・・シンプルながらなかなかの設定です。 これは、一般的な手法ですが、主人公の個性をさらに際立たせる、主人公に感情移入した読者を挑発する効果があります。 小説としては大成功です。
 結果として郭靖は救国の「大侠」という「レッテル」を貼られることとなりました。 これは、もちろん次への伏線ですが、まだ武侠小説の文法の範囲内での物語であったようです。 また、ここでは郭靖が普通すぎる故、「侠」「情義」のありよう、には深く突っ込むことが出来ませんでした

 そして、連作となった神雕侠侶楊過大侠の登場です。
神雕侠侶? 第1巻 忘れがたみ神雕侠侶? 第1巻 忘れがたみ
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 ここでは、どん底の楊過が、全てを「敵」に回し、つまり楊過=「反」又は「非」世間という対比で個性を浮かび上がらせ、数々の降りかかる苦難を克服し、努力して武術を身につけ・・・という「典型的武侠英雄」を「可能な限り全ての要素を書き込み」創りあげました。 大侠でも、郭靖と正反対に書いていけばいいのでより極端です。 その上どう見ても「世間の常識と悪知恵」の塊のような黄蓉と正反対の、「世間に無垢」な小龍女との「情」を貫いた為、侠侶は「野」に徹せました。 しかし、それゆえ、彼らは小説世界の「世間」にも止まることができず隠匿するしかないのです。 読者にとっては楊過の「侠」も「情義」も「ファンタジー」で終わりです。 それはそれで完璧ですが・・・。

 という正反対の二作に続いた、倚天屠龍記では、楊過を裏返しにしたような、郭靖をさらに徹底した「普通の人」張無忌を描きました。 やはり、ファンタジーや英雄譚ではなく「普通の人間ドラマ」を描きたかったのだと想います。
 
倚天屠龍記〈1〉呪われた宝刀 (金庸武侠小説集)倚天屠龍記〈1〉呪われた宝刀 (金庸武侠小説集)
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 張無忌は、郭靖以上に周囲に「巻き込まれ」「成長しているように」みえますが、感情・判断・行動は「殆ど自分からは何もしない」に徹しています。 それはそれで魅力ですが・・・どうもリアリティがありません。 この小説の魅力は「周囲=世間」の個性ある人々と、巻き起こる荒唐無稽は出来事です。 最初から全ての人物・出来事の「正邪善悪」「愛憎恩仇」複雑に絡み、次々に「逆転」「裏返し」になっていき、「倚天」と「屠龍」という喩に集約される「二項対立」が、無に帰すことにあります。
 張無忌は最後「世間的には全て」を失って、「情」の繋がった女性達の「眉を描く」人生を送ります。 金庸小説の中で、物語としては一番面白いと思うのはこれですが、「人間ドラマ」としては少々中途半端です。

 そして、金庸がもっと「人間のドラマ」を書いてみたい・・・と宣言して取り組んだのが続く「天龍八部」のようです。
次回は、「天龍八部」と「笑傲江湖」は散々書きましたので簡単に触れ、鹿鼎記まで一気にいきます。
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