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韃靼疾風録〈上〉 (中公文庫)韃靼疾風録〈上〉 (中公文庫)
(1991/01)
司馬 遼太郎

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『韃靼疾風録』は、司馬遼太郎の最後の長編小説です。 中国に関する、エッセイや旅行記はたくさん残している司馬遼太郎ですが、中国を扱った長編小説は、楚漢戦争の概説書のような「項羽と劉邦」と、これしかないのですね。 また、売り上げは司馬小説の中で20位に入っておらず、ネット検索しても、関連記事があまりありません。
 ここでは、実在の人物の生き様を掘り下げるのではなく、『ある視点・考え方をもった、自分の分身或いはモデル的の主人公を設定し、その時代に放り込み物語を展開させる。 その主人公との相対で人物・時代性を描き、今に繋がる批評・風刺・或いは普遍性を描き込む』という手法を使っています。
 その主人公は、平戸の下級武士「庄助」。 何故か平戸に漂着した韃靼(実は満洲)公主アビアを故国に帰すため、一路赴く。 庄助の朋友弥佐衛門は、密命により蘇州へ・・・と中々の設定で始まります。 明末・清初の満洲・北京・江南を舞台に、ホンタイジ・ドルゴン・鄭成功・呉三桂・・・と登場し、物語を進めていく・・・という構成です。 時代の説明や批評が3/4程度もあり、少々歴史書を読んでいる気分になりますが、結構「面白い」お話です。

 気に止まった部分を抜書きします。

 出発前に、庄助が平戸在住の元非合法海商(海賊ともいう)の親分から情報収集しようとしたときの、親分の科白・・・。
 「倭人というものは、その主にのみ従う。 明人は心が通えば朋友が義盟する。 倭人にあっては義盟はない。 倭人にして明人の心を兼ね、朋友に対して信であるのは・・・・くらいのものだ。」

 最初の頃の庄助とアビアの会話。 庄助がこう問う。
 「漢人についてあなたがたはどう思っております」
 「アルバット(粗野)」
 庄助もごく常識として、文明は漢人が所有し、女真人はそれをもたない、と思っていた。 しかし、女真人からみると漢人こそ野蛮人だという。


 満洲の地に向かう船中にて庄助は思う。
 庄助は操船する閩(ビン)人たちに親しみを覚えた。 ・・・倭人には到底まねのできないばかりに呼吸が緩やかである。 それにひきかえ、倭人は、命をうければ錐のように目的意識だけで生きようとする。

 議論するとあっさり自説を引っ込める明人文士の発言
 「小を憎むことは大の習慣にない」
 庄助と朝鮮人文士の会話で、庄助が問う
 「朝鮮国は四囲の国々をことごとく憎むのか」
 「我を侮り、我をおびやかす者をことごとく憎む。 人の情というべきものである」


 アビアは、彼女の一族がヌルハチに滅せられたため、帰国後同じく「縊る」よう命が下る。 この時、庄助は公主を我が妻と言い訳し、まずはその場を逃れる。 その後の二人の会話・・・。
 「庄助殿、私は何者です」 ・・・「あなたの妻とおもうことが、それほどいけないことなのですか。・・・私が日本の差官の妻であればこそ縊殺をまぬがれた」
 「アピア、こなたはそんな女だったのか」 ・・・この意味は響くようにアピアに通じ、とっさに彼女の両眼が青く燃えた。 庄助、とはげしくよびすてにし、
 「いつ、私がそんな魂胆であると申しました。 命などなにものであろう。 いまここで縊られてもよいのです」
 「私もそうだ」 庄助ははじめて破顔った。
 「こなたが、縊られるならは、私も即座に斬死する」 本気だった。
 「---それは」 アビアの瞳が沈みはじめた。
 「私のために---?」
 「いや、平戸の御主のためだ」
 庄助はアビアの視線をふりきり、削ったような横面だけをみせた。


 ヌルハチから死を賜るアバハイ(大夫人)が言う
 「漢人の地には人の数奇はある。 しかし、胡地にはない」
 「胡地にあっては、人はことごとく数奇です。 すべて数奇であるがために数奇はないにひとしい。 漢土にあっては人はまれに数奇におちこむ。」
 大夫人のいうとおりならば、文明というものは、人をして数奇たらしめない状態をさし、野蛮とは数奇が大地に盛りあげたようにある状態をさすことになる。 その真否はさておき・・・・。


 (冗談(こけ)をいうな)
 庄助はこの言葉が口癖のようになっている。 こけ、虚仮、世間スベテ虚仮。 この世の事象はすべてうわべのことで、真実ではない。 世間虚仮、仏はそう教えている。 庄助も仏のいううわべの世界を生きている。 そのうわべに生死を賭けている。 それこそ虚仮ぞ、そのように庄助自身が自分にいいきかせつづけているのがこの口癖であるようだった。
 (アビアのことも虚仮とおもえ)
 と、べつの庄助が言おうとしたが、内部の庄助が激しくかぶりを振った。 アビアのことが虚仮ならば、この世に何の真実があろうか。


 三年後の再会の約束の場に現れた、弥佐衛門の代理人は言う
 「感情を入れるには明は巨大すぎる」

 ホンタイジは、結局、儒教とは地面だと考えるようになっている。・・・・明は華域にいるがために華(文明)なのである。

 今回はここまで・・・
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