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 この記事からの続きです・・・

 さて、金庸で、前述の『韃靼疾風録』と、『ある視点・考え方をもった、自分の分身或いはモデル的の主人公を設定し、その時代に放り込み物語を展開させる。 その主人公との相対で人物・時代性を描き、今に繋がる批評・風刺・或いは普遍性を描き込む』という同じ手法で同じ時代を描いたのが、『碧血剣』『鹿鼎記』です。
 『碧血剣』は、史実との絡みより、武侠的創作の部分が醍醐味で、手法としては未成熟ですが、『鹿鼎記』は、お話としての無理・無茶、粗っぽさはさておき、手法としては成功です。 「演義」・説七分です。
 日本の歴史・時代小説は、史実を調べ、史書で明かされていない部分や、通説より解釈を変えるようなかたちで、物語を組み立てることがおおいのですが、それとは違いますね。

 Amazonの『韃靼疾風録』(下巻)の読者コメントに、「本来なら中国人の作家が描くべき物語」と書かれていますが、是非とも「鹿鼎記」をお勧めします(笑)。

 この「ある視点・考え方をもった、自分の分身或いはモデル的の主人公」が、韋小宝ですね。 その韋小宝がどんな主人公として設定されたかは、ここと・・・ここで。 及び、ここから、・・・ここまでで、書いてみました。
 『韃靼疾風録』は、「ことごとく数奇です。 すべて数奇であるがために数奇はないにひとしい。」、明末清初を舞台としたため、庄助とアビアの「数奇」もどうも「かすみ」がちです。 作者も、『数奇に気圧されるように』して、膨大なモチーフ(主題)的なもの、メタファーで描かれる側の「言葉」を、ぶつ切り・説明調に放り出しています。 やっぱり、この時代は、やっと、韋小宝くらい、とんでもない「人間の上にまれに見舞うふしぎな運命」を書き込まないと、対抗できない、「数奇」の前に「佇む」に止まってしまうのかな?・・・と思っています。

 最後に、
歴史と文学の境界―“金庸”の武侠小説をめぐって (人文学研究叢書)歴史と文学の境界―“金庸”の武侠小説をめぐって (人文学研究叢書)
(2003/05)
神奈川大学人文学研究所

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 この本は、2003年に神奈川大学で開かれた金庸先生の公演と、シンポジウムを記録したものです。 私は、「笑傲江湖」の記事を書いている途中で読んで、「中心」と「周縁」とか記事にしようと思った内容がすでに書かれており、このブログで書くのをやめた内容が多々あります。 私の地方の図書館にもありますので、是非ご一読を・・・。

 この本で金文京さんは、「なぜ、日本で金庸小説が受け入れられづらいか」を、「紅楼夢」が日本で読まれなかったこと同じではないか・・・と言うようなことを書かれています。
 ということで、「紅楼夢」の有名な一節、假作真時真亦假,無為有処有還無.」(仮の真となる時は真もまた仮 無の有なる所は有もまた無)

 これで、金庸関係は終わりにしたいと思います。
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