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 『神雕侠侶』(Wiki)が、書かれたのは1959年もう50年前ですね。 そして、トリュフォーの出世作、邦題:『大人は判ってくれない』(wiki)が世にでたのも、偶然のように1959年です。

 さて、金庸先生はいつも親切にあとがきで、自己解題してくださいますが、まずその部分を少々抜書きしながらすすめます。 書き出しはこうです。

 本書は、楊過というキャラクターを通じて、人の心や行動に対する世間の礼法や習俗の枷を描こうともくろんだ。 礼法や習俗は、一時的なものだが、それが存在しているときは、巨大な社会的力となる。

 『神雕侠侶』の前半で楊過を苦しめる。『枷』=『道徳規範やら行為の基準やら風俗習慣』を体現するのは、前作『射雕英雄伝』(wiki)で、あれほど我々読者を自由奔放さで楽しませてくれた、郭靖と黄蓉であり、全真教であり、そしてその愚かな子弟たちです。 もし、射雕英雄伝を読まず視ずに、スターウォーズのようにエピソード4から始まったら、武林の英雄になってしまった「郭靖」と、良妻賢母を演じてきたであろう「黄蓉」。 この夫妻の「世間ずれ」には辟易すると思います。 立派な道観を構え、多数の弟子を抱えるに至った全真教しかり。

 「恐れを知らない子供たち」が、 「大人になる」ことにより、「礼法や習俗」の側になってしまったのです。
 この「逆転」が、連作としての『神雕侠侶』の「つづき」「繋ぎ」部分の面白さ でした。 

 そして、齢を重ねても「枷」に嵌らなかった洪七公と、世間の欲を突き詰めた故「狂」ってしまった欧陽鋒は、楊過に最大限の優しさと共感を示しつつ、崋山で果ててしまいました。 終わりの終わりですね。

 若き「楊過」の叫びたかったのはこの一言でしょう。
 「大人は判ってくれない」!

 人の思考や行動は、下図のようなパターンというか分類されるようです。 もちろん、この(x、y)座標軸をあっちへ行ったりこっちへいったりしているわけですが・・・。

sikoukoudou1

 ・利己的/利他的: これはわかりやすいと思います。 簡単に云えば「自分中心」か、「相手の立場」でか・・・
 ・合理的/非合理的: これは、その人にとってではなく、「他者が客観的に観て」 です。 傍目にはとんでもないことも、その人にとってみれば、結構「合理的」ですから・・・。
 そして、「損得勘定」や「論理的一貫性」の範囲です。 好みや正邪善悪などの価値判断、つまり『道徳規範やら行為の基準やら風俗習慣』は極力排除します。 常識という枷からは、もちろん大きな意味では逃げられるものではありませんが・・・。

 『射雕英雄伝』における、主人公、「郭靖」と、「黄蓉」の組み合わせの面白さは、性格の対比(次回書きます)もさることながら、この「思考と行動」の好対照にあります。
 普段は「利己的」&「合理的」な、「黄蓉。 何かあると、相手の立場で考え動き、それがどうも筋道の通らないことばかり、自分というものが有るのか・・・とも思わせる「利他的」&「非合理的」な「郭靖。 更に、スイッチが入ると、「郭靖という他者にのみ」利他的&合理的になる「黄蓉」。 そして、それを取り巻く、徹頭徹尾自分勝手な、「利己的」&「非合理的」な皆様・・・。
 こんなキャラクター構成とストーリーが面白さの基にあります。

 しかし、前述したように、、「郭靖」は、数々の試練を乗り越え大侠と呼ばれるようになった、つまり「大人になる」ことにより、「利他的」は変わらずとも「合理的」、自然体で全くの「常識人」になってしまったのです。 それによって、①と③を使い分けていた「黄蓉」のスイッチも、③に入らなくなった(必要が無くなった)のです。

 楊過も、まずは「利己的」&「非合理的」という立ち位置で入ってきます。 それが「利他的」&「合理的」(ここは難しい)のスイッチが入ってしまったわけです。

 ということで、Part1はこの辺で・・・。 次回は「スイッチ」は、「何?」です。
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