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 この記事からの続きです・・・(リンク)
 「倚天剣」と「屠龍刀」をキーワードに、一つ前と親和性のある「言葉の連想ゲーム」をやっていくと、いつの間にか、同じ言葉に行き着いたり、向こう側に行ってしまったりします。 この辺が射雕三部作の前二作と『倚天屠龍記』の物語構造が大きく違うところです。

 まず、『射雕英雄伝』は、主人公四人と二つのカップル、サブキャラの四老爺の、舞台設定などあらゆる点での「対比」です。 (リンク)。 「貴方にとってどちらが好み? 但し一度に二羽は射抜けません・・・」
 『神雕侠侶』は、楊過・小龍女の「世俗」との『対立』です。 そのうえ、「超俗」へドンドンと神化していく物語です。 その道案内が「雕」故の「神雕侠侶」。 「誰も二人を止められない、滝の底までまっしぐら(笑)。」

 この三作を比較して絵にしてみたのがこれです。
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 『倚天屠龍記』は、「対立していた明教と武当派の子」張無忌を、主人公として物語の中に投げ入れたことから、対立・対比の軸・鏡は存在せず、そこにあるのは「差異」のみ、これまでの人生、今の生き方、全ての点での「違い」だけです。 皆、色恋沙汰・痴情の縺れ・世俗の欲得で人生を誤り、何がしかの後ろめたい過去を背負って登場してきます。
 全ての価値・関係が、単なる「相対的」なものではなく、時には善人・方や悪人、あるときは敵、次は味方、と、ドンドンひっくり返っていく『倚天屠龍記』は、<二元論>を越えた、というか中華的には先祖帰りというか、『陰陽』(リンク)
c0015367_9341988 の世界観に拘った物語です。 「陰陽」の要訣をWikiから引用(笑)します。

<陰陽互根>: 陰があれば陽があり、陽があれば陰があるように、互いが存在することで己が成り立つ考え方。
<陰陽制約>: 提携律とも言い、陰陽が互いにバランスをとるよう作用する。陰虚すれば陽虚し、陽虚すれば陰虚する。陰実すれば陽実し、陽実すれば陰実する。
<陰陽消長>: 拮抗律とも言い、リズム変化である。陰陽の量的な変化である。陰虚すれば陽実し、陽虚すれば陰実する。陰実すれば陽虚し、陽実すれば陰虚する。
<陰陽転化>: 循環律とも言い、陰陽の質的な変化である。陰極まれば陽極まり、陽極まれば陰極まる。
<陰陽可分>: 交錯律とも言い、陰陽それぞれの中に様々な段階の陰陽がある。陰中の陽、陰中の陰、陽中の陰、陽中の陽。


 『射雕英雄伝』『神雕侠侶』にも、陰陽のイメージは強くありますが、あくまで「対比」「対立」という「関係の設定」です。 物語自体が交差したり裏返ることはありません。 一方『倚天屠龍記』は、今進行していく物語自体が、陰陽そのものです。 それは、『嘘と誤解という「ノイズ」をスイッチに動き出し、対立していると思われた『「ツリー」が「ネットワーク」』になっていきます。 その進行役かつエンジンが「張無忌」というハブ (hub) です。
 作品としての出来上がり具合や、完成度はともかく、この辺の「ポストモダン」さ(笑)が、『倚天屠龍記』の魅力です。

 次は「張無忌」『非英雄=ポストモダン的「主人公」』について書いていきます。

『倚天屠龍記』(wiki) (中文wiki) (百度) DVDMAXAMHP  MAXAM予告編  (中文原作)  NECO特設HP

 以下余談ですが、
 武当派はもちろん太極拳など「陰陽」のイメージ、一方明教の元ねた「マニ教」(Wiki)は徹底した「善悪二元論」(結局一元論になる)、とこれまた「対比」が設定されていました。 張無忌は、「明教」の絶対武功「乾坤大挪移」(陰陽の「境目」で「何もないこと・・・武術として中身はない・・・」(笑))で乗り越えてしまいます。 金庸先生も上手いというかずるいですね。
 三分で並べてみた「倚天剣と屠龍刀」のイメージの連鎖。
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