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明末のはぐれ知識人―憑夢龍と蘇州文化明末のはぐれ知識人―憑夢龍と蘇州文化
(1995/04)
大木 康

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 「憑」でなく「馮」ですよね。 AMAZONさん間違い2ヶ月で3件目ですぞ!

 笑傲江湖の小説「聯手」の章では、華山派を破門された令狐冲と、魔教の反逆者向問天、「はぐれ」者どうしが出会い正邪連合軍と大立ち回りを演じ、お互い「義」に感じ兄弟となります。

 さて、先日この記事で「山歌」について書きましたが、「山歌」を編纂した馮夢龍について、前出の本と同じ著者が書いた題記の本を読んでみました。 まず、『目次』はリンクの通りです。

 馮夢龍は、明末の蘇州人。 これだけで胡散臭い(笑)。 江南四大才子の一世代後の人。 四大才子のひとり「唐寅」をネタにチャウ・シンチーが「唐伯虎點秋香(詩人の大冒険)」という映画を撮っていますが、元ネタは馮夢龍が書いた「唐解元一笑姻縁」という「白話小説」だそうです。

 馮夢龍の「はぐれ」とは  ・科挙に落ち続け  ・「飲む」「打つ」「買う」に走り  ・蔑視の対象だった「白話小説」「通俗歌謡」に手を出した  ことだそうです。(本書あとがきより) 本来彼が「あるべき姿」からズレた故の「はぐれ」ですね。 まあ、この人自身が明末・蘇州と言う時代性の象徴のようなものなのでしょう。
 私は、この本の史学的・文学史的検証には言及できませんが、これほど「はぐれた奴」への批評としては、少々疑問ありなのです。 それは、書物の「商品」化と「読者」の存在、つまり「売るために書かれた本」であることと「読者がその「本」を買う動機、作品への期待・先入観」、という視点が抜けているのでは? と思いました。

 馮夢龍は、今で言えば、T大学を出たものの(「正員」には合格した)、高級官僚コースには乗れず(「科挙」はそんなものではないが)、日夜高級クラブ・競艇場・ソープ通いを続け、あらゆる読物・映像の編集・出版(特に色情系は裏モノまで)に手を染める。 ようなもんでしょうかね。 羨ましい限りだ(笑)。 余談ですが前記の「唐寅(唐伯虎)」ってこんなアブナイものにもからんでたんですね。 規制と言うものが無かった時代らしいです。 やりたいことがやれたんでしょうね。 閑話休題・・・。

 「編集者」兼「作家」としての馮夢龍は一種の「ブランド」化していたような気がします。 それも片手で「科挙受験参考書」など実用書と「時事評論」、片手に「通俗もの」それも「小噺」「色情」「花街」「博打」「忠義」・・・つまり『売れるもの・面白いものは何でもあり』。 こういった『出版物』のお客さんは「科挙受験生」など「都市のブンカジン」達だったようです。
 「馮先生、今度はエロ本出したらしいぜ」 「欲しいなあ、でもこの前のフーゾク案内書、親に見つかっちまって取り上げられたよ」 「なあに、表紙を参考書にして隠しておけばいいんだよ」 「そうか、でもこの前取り上げられた本、親父の奴棄てずに読んでやがってお袋に怒られてたぞ」 「そんなら、お袋のためにエロ本を見えるとこに置いとけよ、ハハハ」・・・
 といった具合なんでしょうか。

 さて、この本の著者の『面白がりかた』はお付き合いしてもいいものなんですが、少々疑問ありなのです。
 -第四章 文学の大転換 5.勧善懲悪の構図- で、著者は次のように書いています。
 「白話小説など・・・知識人化」の結果、「作品中の教化意識」が強くなった。 「通俗小説に付せられた教戒的な序文は、作者の韜晦にすぎない・・・本当にそうなのか」という問題提起をし、『古今小説』の「珍珠」の物語をその元ネタと比較し、勧善懲悪的部分が付け加えられているのを示し、「勧善懲悪の枠組みをはっきり打ちだしたのは、ほかならぬ馮夢龍その人」とし、「明末の時代は、・・・知識人の多くが危機意識を持った・・・、勧善懲悪の強調にはそうした危機意識の一端・・・、「真」の一側面であった。」「人間の心理と「教戒性」、「情」と「理」、この両者が調和し共存しているところに、馮夢龍の「三言」の作品の意義と魅力があると思われる。」
 と結論付けています。
 拙い私見ですが「違うんじゃないの、読み方が」と言いたくなります。 馮夢龍自身やその作品を「時代性」でみるなら、「自己目的のための記録(史書)」「教育資料(仏法など)」「政治的言説(XX学の各種論説)」とは違い、「商品=お客さんがお金を出して買うもの」化した「書物」と、その「読者」の存在、「その「本」を買う動機、作品への期待・先入観」を忘れてはいかん、と思います。
 まず、作品中の教化意識 ですが、「作者の韜晦」であろうと、「危機意識の一端・「教戒性」」であろうと、「当時の本を買う読者は何を求めて買うのか?」と考えれば、「自虐」を読んだり「お説教」を聞くためではなく、『面白いものが読みたい』だけのはずです。 エロ本を読む(みる)時には、そこに何らかの物語があっても、結局「アノ場面」が凄いかどうか、でしょう(笑)。 そういう「本」の目的とズレた言説は、作者が意図して書くかどうか、正論かどうかを問わず、「二次的」なものになってしまいます。 「通俗」=「商品」であれば余計ではないかと。 「何言ってんのよ馮先生」・・・で読み飛ばされるはず。 チャウ・シンチーが「勧善懲悪」やっても誰もマトモにはうけとりませんよね。
 「商品」として「色物小噺」に時代批評的なものを書き込んでも、ワザとらしい「教戒性」や「理」は、「アイロニー」そのものと読まれると思います。 それは、作者自身が自覚しているはずです。 今読むなら、『調和し共存』(バランス)と言うより、「多義性」「多重性」ではないでしょうか。

 アレ、言ってることは著者と同じかな? まあいいか。
 なぜこんなことを書いたかと言うと、金庸は確信犯的にこの「多義性」「多重性」を書き込んでいたのではないかと思います。 特に「笑傲江湖」はまず「武侠小説」として傑作であり、かつメタファーとして「政治的批評」とそこから感じられる「人間ドラマ」が「キレまくって」いると思います。 しかし書き方は「三言」のように「ミエミエ」ではなく、あくまで「武侠小説の枠」に徹しているところが「ジャーナリスト」と「武侠小説家」という「多義性」を成り立たせた「腕」かなと思います。
 
 で、金庸もはぐれ者かって? はぐれ者じゃなければ令狐冲、喬峰、郭晴、楊過は描けないでしょう。 「人在江湖,身不由己」故の「はぐれ」であっても・・・。
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