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中国の隠者 (文春新書)中国の隠者 (文春新書)
(2001/03)
井波 律子

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 小説「笑傲江湖」に唸ったのは、物語を読了し心地よい疲れを感じたあと眼にした「あとがき(リンク)」です。 そこで多く語られているのは「隠士」(隠者・隠逸・逸民)についてであり、これが小説のテーマのひとつと思います。
 「笑傲江湖」は「隠士=隠者」は如何なるものか?を論じてもいないし、「隠士」であるべきだ、と書いてはいないと思います。 「人在江湖、身不由己(人江湖に在りて、身己に由らず)」、まあ「渡る世間は鬼ばかり」とほぼ同意でしょう。 「鬼とは一緒にされたくない」とはいえ、我々はそう簡単に「江湖」=「渡る世間」から隠遁しようも無いのです。 では、「己を棄て」てでも「鬼」になるのか?。 このアンビバレントさ、主人公の令狐冲と取り巻く「江湖」「武林」の人間達の波乱万丈の「渡世」を、単純な「二項対立・択一」の物語ではなく描くことにより、この物語をある面深いものとしている。 時として読者を立ち止まらせ、又、勇気づけている。 そう感じています。

 中国における「隠者」とは、上記井波先生の著書にこうあります。
 ・『古代から 「何者にも束縛されない自由指向型」 「緊急避難的に隠遁の道を選び、わが身を律し続けようとする禁欲型」 の両極端があり、・・・・現実の社会や政治に違和感を感じ、そこから身を引き離そうとする点では、深く通底する。』 
 ・『後世の隠者の場合、・・・・精神的な自由で解放された、楽しい隠遁を志向・・・・。』
 ・『おおかたの隠者に。・・・大きな影響を与えたのは「道家思想」である』

 この本では、「東方朔」「竹林の七賢」「王義之ほか南朝貴族」「葛洪」「陶淵明」「李白」「林通」「米芾」「白仁甫」「呉中四才」「徐渭」「徐霞客」「張岱ほか」「八大山人」「袁枚」らを取り上げています。

 小説ではここまでに「劉正風」「曲洋」のコンビと「江南四友」が、「隠者」の例として登場します。 前者は「芸術上の自由を求め」党派を超えた「莫逆の友情を重んじた」が、まさに引退式の席上での「政治の暴力」により。 後者は党派の現実に失望半ば引退し「孤山で実名をかくして琴棋書画の楽しみを享受しようとした」が、楽しみを追求するが故「政治の権謀術策」に利用され。 双方とも覚悟の上とはいえ破滅に追い込まれます。
 作者金庸はこの二つの例を「笑傲する」とは言わずとも「かなり冷たく扱っている」様な気がします。 令狐冲は、「劉・曲」コンビには「この二人は音楽に毒されているな。 生きるか死ぬかってときに、まだ哀にして感傷に浸らずだの、風雅だの俗気だの議論している・・・・(七章)」と違和感を示し、「江南四友」に対しては、黄鐘公の自刃に際し義は感じ感傷的になっても、総じて任我行・向問天の彼らへの暴虐な仕打ちに対しては、傍観者になっています(二十二章)。
 確かに彼らの生き方は興味津々、立派なものですが、所詮「文人(士太夫・知識人・文化人)」故できること。 我々のような「江湖」「武林」を「鬼と一緒に渡らなければ」いけない面々には「ああそうですか?」としか言いようが無いのでは、と暗示していると感じました。  これまで永年「目前の生」をさておき「隠者とは何ぞや」などと論じてきた文人への皮肉も含めて・・・。

 では、『「江湖」「武林」を「鬼と一緒に渡らなければ」いけない』我々が、「己の思うこと」と「渡世」を両立させる、少なくとも「分裂」しないようにするには如何なものか? この辺が主題になってきます。
 金庸は「あとがき」で隠者のモデルとして、孔子の「論語」から三つのタイプを記しています。
 ・おのれの意志を放棄せず、おのれの尊厳を犠牲にしないタイプ
 ・意志と尊厳を犠牲にしているが、言行は道理にかなっているタイプ
 ・世間から逃れて隠居し、放言をして、悪事も働かなければ、政治にも参与しないタイプ

 そして、次のように記します。
 「政治活動に参加する場合、意志と尊厳を捨てざるを得ないのは、仕方のないことである。・・・・ 肝心な点は「人に仕える」ということである。 大衆の利益のために、政治に従事すれば、人に仕えなければならない。 原則を堅持しながら公衆のために働き、功名や富貴は望まない、上司の命令を聞かねばならずとも、それでも「隠士」だと言えるのだ。」
 ここで「政治活動」は広義に「企業・学校・地域など社会的活動すべて」と読んで差し支えないと思います。
 肝心なのは、己の「意志と尊厳」にこだわることより、「道理・原則」だと。 「道理・原則」つまり「社会的倫理観」。 それは「義」という文字の意味するところであり、その体現する者が「侠」なのでしょう。

 しかし、華山派の大師兄「令狐冲」の会得してきた「伝統的な義」は、ここまでで、理不尽なほどボロボロになってしまいました。 それは、先般「中国の近代史」に例えたように、です。 作者は、『令狐冲は生まれついての「隠士」』といいますが、ここまでは、生まれついての「自由闊達な性格」と「独孤九剣」という革新的剣術以外、すべて否定され失っています。 
 ここから先、多分作者が書いていきたかったのは「伝統的な義」を越えた「義」の模索・再発見ではないか、と思います。 具体的にどういうことなのか? それは今後の物語において、令狐冲を「救う存在」となる「盈盈」と「儀琳」が体現しているもの及び彼女達との関係性のなかで、更に会得した武功、数々の登場人物・武功・闘争から、メタファー的にみえてくるものの中にあると思います。

 では「義」は再発見されたのか? これは「あとがき」で「盈盈」より「儀琳」の方が良かったかもしれない・・・、などと作者自身が書いている事で「二者択一の結論」は出ていませんし、迷うというより「二者択一自体がまずい」のだということなのですが・・・・そんな処を、ここから先、物語の進行と相まって記していきます。
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