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中国人の思考様式―小説の世界から中国人の思考様式―小説の世界から
(1974/01)
中野 美代子

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 西遊記の中野美代子先生が’74年に出したこの本ですが、キレまくって痛快です。 これが目次です。
 本の題名は何かありきたりですが、早くにこの本を読んでいたら、近現代の中国小説にもっと嵌ったかもしれません。 でも、金庸を読む前では?どうかな・・・。
 中野先生は「あとがき」でこう書いていますが、拍手、というか文学のお仕事も大変ですね(笑)。
 「やや集中的に清末の小説を読んでいたが、いずれをとってもあきれるほど面白くないのに閉口した。・・・・・どうしてこんなに面白くないのか-これを理論的に追求するのは中々面白いことであった

 本題はこれではなく、この本でも触れらている「諷刺」についてです。


 「笑傲江湖」は’67年という文化大革命初期に書かれたわけですが、’80年の単行本化の際追記した「あとがき」にこう書いています。
 「私は毎日「明報」の社説を書いていて、政治の下劣な行為に対し強烈な反感を抱いていたので、ごく自然にそれが、毎日少しずつ書いている武侠小説の中に反映されていった。 この小説は、わざと文革を当てこすっているわけではなく、小説の中の幾人かの登場人物を通して、中国に三千年あまり続いてきた、政治生活における普遍的な現象を、若干描きたかったに過ぎない。」 
 ここの当てこすりとは、原文は「影射的」となっていました。 日本語の辞書的意味では「嫌味、面当て、皮肉、悪口」などと同じ意味とします。

 文学における「諷刺」とは何か? 中野本では、伊藤整の「諷刺の発想」(「小説の認識」に収録)を引用し説明しています。 私もこれによります。
 「若し作者が、現象の内部に認識した秩序を、それの発生した現象と別個の秩序を持つ現象の中に置き換える時、それは架空な未来社会の物語りとなったり、仮託的な歴史物語りととなったり、動物の物語りとなったりする。 そして作者の認識の発生したもとの現象の本質をなす秩序が、人間性の自然な調和に反するものである時には、この仮託または置きかえによって、その特色が意識的に拡大され、強調される。 しかも読者は、その仮託や置きかえの中に、もとの現実を認識しないとき、その作品は純粋なフィクションとなる。 もとの現実を認識することを予定し、しかももとの現実を批判しながら書かれる仮託の作品が諷刺となる。 即ちもとの現象と、それから抽出された秩序と、仮託された別個の物語りと、この三つを同時に操作することで作り出されるものが風刺的作品だと思われる。
 金庸が、ただの「当てこすり」でなく「普遍的」なものとしたいという意図とその作業は、伊藤整言うところの「現象の内部に認識した秩序」を「抽出」することであり、これが「武侠小説」に「仮託」されたということで「笑傲江湖」は「諷刺文学」そのものであると思います。 最初から「諷刺とは何ぞや」と取り組んだわけではなく、当てこすりではない、当てこすりに止めたくないという意志が「諷刺」性を創りだしたのかもしれません。 その結果「人間性の自然な調和に反する」人物ほど「特色が意識的に拡大され、強調され」、左冷禅・岳不群・任我行そして東方不敗など「政治的」登場人物ほどその特異なキャラクタが際立ち、各人の駆使する武功や闘いの場面のメタファーも含め、「悪辣」「残酷」「妖人」などという形容にとどまらない迫力を生んでいると感じます。 そして、その対極にある令狐冲と盈盈の金庸云うところの「隠士」的個性が際立ち魅力溢れるものになっていると思います。

 「諷刺文学」は「愚神礼讃」、「ドンキホーテ」、「ガリヴァー旅行記」、「動物農場」など西洋文学では、重要なジャンルですが、中野先生はこの本で「中国には諷刺の精神が作者・読者とも欠如しているため諷刺文学はほとんど例がない」と書いています。 尚、「儒林外史」が世評では「諷刺小説の最高峰」とされていることを否定し、老舎の「猫城記」を小説技術的には失敗作だが、稀有な諷刺精神による作品としていますが、私は読んでいないのでさておきます。 そうなると、作者の意図と作法、その結果である作品として「笑傲江湖」は中国で稀有な「諷刺小説」と言えるようです。 

 伊藤整の文から抜粋です。
「諷刺作品としての文学は、諷刺された現実に対する批評である。」「後に残る心理的感銘は怒りであったり、悲しみであったりする。」
「諷刺文学の特徴でもあり弱点でもある「一時性」という性格が働いているので、時代が変り、読者の環境が変ると、それ等の作品が何を諷刺しているのか分からなくなる。」「諷刺的性格が写実的または空想的性格に転化しながらある作品が読まれる」「質的変化に耐えながら読者を持ち続けることが、大多数の一流作品の運命であり、かつその力量の証明をなすもの」
「ある現象の本質は、よき認識者によって捕らえられ描き出された時は、そのまま同型のあらゆる現象の本質となる」「作品は、もとの対象が忘却され、それから切り離されても、独立した作品としての現実感や強烈な印象を読むものに与える」


 金庸が、現実への反感・怒りを感じつつ、「笑傲江湖」が単なる「当てこすり」にならぬように「政治生活における普遍的な現象」を描きぬこうとしたことは、彼の「政治評論家」かつ「武侠小説作家」としての力量を証明するものになったのではないかと思います。 その度合いは、歴史が判断していくのでしょう。

 この後、伊藤整の文章は「笑い」と「諷刺」について突っ込んでいきますが、私の手に余るのでこの辺で終わります・・・。
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